青森松原教会ホームページ

青森松原教会は132年の歴史を持つ、キリスト教の教会です。

TEL:017-776-4800

 FAX:017-723-6809

〒030-0813 青森市松原1-16-27

御言葉

虹に願いを

 87歳の私の様子を看に来てくれたM子から「埼玉へ帰る途中、新幹線の列車の窓から、大きな虹を見ました」と、メッセージに添えて写真が送られてきました。感動している様子が目に見えるようです。

 誰でも虹を見上げる時は、優しい笑顔になるのではないでしょうか。虹を見ると、その日一日楽しくなります。小学校の文部省唱歌に「にじがでたー、にじが出た~、空にいっぱいに、虹が出た~~」という歌がありました。とても楽しかったのを思い出します。幼稚園に行けなかったから、学校へ毎日行けるのがとても楽しかったのです。

 大人になってからは、虹に出会うことが少なくなったように思います。心に余裕が無くなったのかしらと思ったりしています。今でも心に強く残っているのは、夫が仙台の大学病院に入院し、付き添っていた時、病院の4階の窓から見た虹です。

 付き添いの方達が小声で「虹だよー」と叫びながら走って行くので、後をついて行くと、目の前に見たこともないような大きな虹がかかっているのです。驚いてしまいました。
小児病棟と同じ階だったので、子供を抱いている方も居ました。
 大学病院には難病を抱えている子供が多いように思います。手術で小腸を失くした子。8歳位なのに、身体は1歳位で、まだ歩けない子も居ます。それでも、ひと時、音の無い拍手と優しい笑顔に包まれたのを覚えています。
 私も「今、しばらく消えないで・・・」と大きな手術を数日後に受ける夫のために、虹に願いを託したくなりました。背中に左肩下から左胸へ廻り、心臓の側を通り下腹部まで1m近い傷になります。夫より私の方が緊張していました。

 聖書の創世記9章13節~14節に、虹について記されています。
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」
 虹は神様の栄光のお姿として、平和と暖かな愛の象徴が示されていると思います。わたしたちの目には、届かない雲の彼方にも、虹はかけられていると思います。

 8月は戦争について考えるべき月でもあります。どうぞ、非人道的な戦争などが起こりませんように・・。平穏な暮らしや、人の命が戦争に奪われませんように・・。平和は大切な人の命が礎だと思いますから・・・。
                                           (T. K.)

とりなしの祈り

教会では6月の第2週の日曜日を「花の日・子どもの日」として、神から与えられた自然の恵みと子どもたちを感謝し、子どもの教会との合同礼拝として献げる日にしています。2017年は6月11日になります。

礼拝の中で子ども祝福式が行われ、礼拝後に皆で持ち寄った花を子どもの教会で、お世話になっている近隣の公共施設等にお花を届けます。「祝福」とは旧約聖書の中で「神のまなざし」と同じ意味を持ちます。ここでは①子どもが繁栄すること②神がいつもあなたと共にいると約束する、神の救いの約束です。

今日(2017年6月11日)の説教題は「とりなしの祈り」です。ルカによる福音書23章32節から34節までを用いて大澤先生が捧げられます。2016年度に大人の礼拝の公開連続説教でルカによる福音書はすべて聴きましたので、今日の部分も学んでいます。その時の説教内容をメモしたノートを再び読んでみました。取り上げられている範囲は23章32節から38節までと、今日よりは少し広くとられています。説教題も「十字架上の執り成しの祈り」となっています。イエスは十字架にかけられている時、人々に罵られたり嘲られたりしても、神に対し「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ります。それがとりなしの祈りです。人間にいくらひどい目にあわされても、神に人間をとりなして祈ってくださるのです。

今は朝なので、子どもの教会との合同礼拝はまだ始まっていません。説教は大人の礼拝とはまた違った切り取り方で教えてくださると思うので楽しみです。

ちなみに2017年度は使徒言行録を学んでいます。すでに15章まで行っています。そちらも楽しみです。

(K.N.)

元日の主日礼拝

新年あけましておめでとうございます。

本年も皆様の上に、神さまの豊かな恵みがありますようお祈りいたします。

 

本日は2017年1月1日 元旦。

一年の初めの日が礼拝を守る恵みの日であることから、2017年は感謝と気持の

引き締まりを感じるスタートとなりました。

 

本日の礼拝も、神さまのメッセージが語られました。

そのメッセージの聖書箇所は、使徒言行録 6章8節から15節(新約聖書224頁から)からで、私の心に響いた言葉は、「知恵と霊とによって語る」です。

 

知恵とはなんでしょう?

霊とはなんでしょう?

 

それぞれの受け止めかたで、分かるようで分からないと言われそうですが、「知恵と霊とによって語る」、この「語る時の在り方」についてのメッセージと私は受け止めました。

 

2017年、平成29年はどんな一年になるのでしょうか。

夢を叶えるため努力をする人もいるでしょう。

健康のため心身の摂生に努める人もいるでしょう。

私は、ひととの会話の言葉の中に感謝や恵みが出ているのだろうか、ひととの会話の中に信仰的な誠実さがあるだろうか・・、など表面的な言葉では繕えない、心からの言葉を持てる一年でありたいと思いました。

(H.Y.)

平安はあなたに~信仰による大安心~

11月22日(日)青森松原教会では小堀康彦牧師〈富山鹿島町教会〉をお招きして、特別伝道礼拝を行った。上記の説教課題で聖書の箇所はマタイによる福音書14章22節~33節を用い説教をなさった。

その物語の中でイエスさまは、湖の上で嵐に会い、逆風のため波に悩まされていた弟子たちの船の方へと湖の上を歩いておられた。それを見て「幽霊だ」と言って恐怖の余り叫び声をあげた弟子たちに「私だ。安心しなさい。」と言われた。これは聖書にある重大な一句である。

イエスさまは「私だ。私が神だ。その私がここにいる。私があなた達を守ってあげるから、恐れることは何もないのだ。」と。ペトロ(弟子の一人)はイエスさまに「水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」と言うと、イエスさまが「来なさい。」と言われたので、ペテロは水の上をイエスさまの方へと進んだ。しかし、イエスさまから目をそらすと、すぐに恐くなり、沈みかけ「主よ、助けて下さい。」 と叫んだ。イエスさまはすぐに手を伸ばして捕まえ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。

ペトロはここで失敗したか?しかし物語の結末は、ペトロが水の上のイエスさまのところに行けたのか?ではない。それは他の(ペトロ以外の)弟子たちが「本当にあなたは神の子です。」と、イエスさま(神)への信仰を告白したことである。

たとえ、どういう風になっても「イエスさま、助けて下さい。」と必死に祈ると、私たち溺れない。ペトロは水の上に一歩踏み出した。これが信仰だ。しかし、私たちはその一歩を踏み出さない。ペトロの信仰は大したものである。

次に「ある教会員の事業経営が困難に陥った時」の例を話された。金策に悩み、相談を受けたが余りにも多額で何とも出来ない状態であった。その人は「先生、ただ祈ってください。」と願った。その後、半年以上苦しんだが、ようやく出資者(知人)が見つかり、見通しがついたとの事。

人生には八方塞がりの時があるが「イエスさま、助けてください。」と必死に祈ると、必ず道が開ける。神さまは思っても見なかった道を与え、導いてくださる。イエスさまのみ名をほめたたえる信仰者に、又、キリスト者の人生に失敗はない。

主をほめたたえる者には喜びがある。

私たちは、失敗する時があるが、少しも恐れることはない。「イエスさま助けて下さい。」必死に、と叫べば良い。イエスさまは私たちを捕えてくださる。

「神さまと共に歩む。」

そこに私共の平安がある。それは神さまがあたえてくださる。

私は小堀先生のメッセージ(説教)を聞いて、先生の尊い経験の中から得られた信仰の確信を私たちに伝えてくださったと感じました。これからも、日々の生活において信仰の戦いがたくさん起こってくると思いますが、どんなことがあっても「イエスさま助けて下さい。」と真剣に祈りながら、イエスさまに従ってブドウの木のように、イエスさまにつながって歩んで行きたいと思っています。

(E)

惑わされないように気をつけなさい

明けましておめでとうございます。青森は驚くほど雪が少なく、穏やかな日々を過ごしています。

さて、新年礼拝の今日は、『ルカによる福音書21章 終末の徴(しるし)』について、大澤牧師がお話をされました。この章で、イエスは『惑わされないように気をつけなさい。』と言っています。

実生活で、私は惑わされることがよくあります。それは自分自身が絶えず揺らいでいるからです。だから、何かを始めようとするときには、勇気が要ります。でも、いつも勇気を持って進む力を私は持っていません。

私は、勇気がなくても進むことができる『確信』を持ちたいのです。私が常に探している道、確信を持って揺らぐことなく進むことができる道を神が示してくださるなら、その声を聞き逃さないように、その道を見逃さないように、その力を感じられるようにしたい。

新しい年を迎えて、そのための備えをしておきたいと思います。

(YN)

聖書を読んでみませんか?

「ねえ、ねえ、『聖書』って何なの???」

私は知り合いの子からこの素朴な質問を受け、咄嗟にわかりやすい言葉で説明ができませんでした。何とか適当に答えておいたのですが、後でこれではいけないなと後悔しました。でもなかなか実行できず現在に至ったのですが、今、私の属している青森松原教会(旧・青森長島教会)では、来年(2016年)10月に教会創立125周年を迎えます。そこで「聖書通読」をやってみようということになり、旧約聖書1章、新約聖書1章と、1日2章ずつを今年1月下旬から実施しています。そしてまた、4月からは聖書黙想会を毎月第4土曜日9時から10時まで行っています。

そこで私は改めて「聖書」って何???について調べることにしました。固い表現になりますが、聖書辞典によると、「聖書」はキリスト教の経典である。教会はこれを神の自己啓示と、人類に対する神の意志とを掲示する霊感の書と認め、信仰の規準としている。しかし、これはイスラム教徒がコーランについて主張するような「天から降った書物」ではない。

「聖書」は聖霊の感動によって書かれた神の啓示であるが、それは同時に人間の言語を媒介として書かれた書物である。すなわち聖書記者(キリストの弟子たち)が神からの啓示を、文化的な営みを通して、人間的な制約を担いながら人に語ったものである。ダイスマン(1866-1937)がパピリの言語学的研究から「聖書は庶民の書である」と指摘したように、「新約聖書」は市井(庶民)の言語で書かれた「庶民の書」である(まだまだあるが、詳細は省略)。

現在私は、毎日聖書を読んで聖書に親しんでいるのですが、毎回のように「み言葉の宝石(宝)」を発見しています(特に新約聖書から)。

みなさんも「聖書」を読んでみませんか?

(R)

「見失った羊」のたとえ

私たちの教会も新年度のあゆみをはじめました。

 

教会年度主題:

救いを必要とする一人ひとりに福音を届け、共に喜びを分かち合う教会を形成する

年度聖句:

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

(ルカによる福音書15章7節)

 

本日も主日の礼拝を守ることができました。

礼拝では、牧師から聖書の聖句を通して神さまの御言葉を解き明かしがされます。そして集う私たち一人ひとりが神様の戒めと恵みと励ましを与えられる時でもあります。

 

本日の聖句は、ルカによる福音書15章1-7節でした。この聖句は、「見失った羊」のたとえ、と題された聖句で、私たち青森松原教会の2015年度聖句です。

 

わたしは、99匹の方かな?1匹の方かな?

どちらかも分からず歩む者かもしれません。しかし、いつも私たちを見守ってくださる神さまを覚えます。万が一、思いっきり迷ってしまっても、大丈夫。きっと、神さまが探し出してくださると祈りに覚えて、天の喜びを信じあゆみゆきたいと思います。

(H)

礼拝から始まる一週間

私たちクリスチャンは、日曜日の礼拝の中で、讃美歌により神さまを讃美し、牧師の説教により聖書の箇所からの神さまの語りかけと励ましをいただき、一週間のあゆみを始めています。

先週8月31日(日)説教者は、青森松原教会長老S.K.姉で、説教題は「平和への道」(ローマの信徒への手紙12章17-18節)でした。戦争は絶対に起こしてはいけない、しかし、他者へ悪に悪を返してしまう私たちの心は、戦争と何ほどの違いがあるのか、との戒めを聴き、その週をあゆみました。

今週9月7日(日)説教者は、東奥義塾高校Y.A.牧師で、説教題は「主は希望の源」(ローマの信徒への手紙15章7-13節)でした。神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい、と聖書の言葉から、まず、私自身が相手を受け入れるように変わって行かなければならないと聴き、今週の歩を始めています。

私たち自身が今、どのような毎日を過ごしているか、私たちが気づいていない弱さにこそ、聖書の語りかけが響き、それを明らかにし和らげられているのかもしれません。一人ひとり、それぞれの今の姿によって、聖書の語りかけの響きは変わると思います。みなさんも「礼拝から始まる一週間」を、あゆんでみませんか。

(H)

信じるということ

このたびの大雨、土砂災害で亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表し、現在も困難にたちむかっていらっしゃる人々にお見舞い申し上げます。

信じるということは、目に見えないものを「ある」と確信することです。例えば植物の芽が日々大きくなっていくのを見たり、動物の子供が成長したりする姿を見ることによって「生命」があるなと実感できます。
しかし、神は目に見えません。さわることもできません。多くの場合、どんな時でも神は沈黙を守ったままです。苦しいことや悲しいことにあった時、神を疑いたくなります。それは信者としては悪いことなのか?と自問自答します。

けれども、そんな疑いを持ち続けることがかえって神をよく知ることにつながっていると思います。もうダメだと思っても、道が開けてくることが何度もあったからです。目に見えない力に守られていると思います。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

(ヘブライ人への手紙 11章1節)

(M)

「光と闇」

8月17日(日)の礼拝説教から促されました。

「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」(ルカによる福音書11章35節)

私の中に光がある!人に与えられている光。尊い光。自らが得たものではない。しかし、私の光。これが消えたら闇となる。私はどこに向かうのか。どこに行くのか。絶えず感謝して調べたい。消えかかっているなら、増して頂かなくてはならない(そのために、礼拝に行く、聖書を学び祈り合う会に行く)。

「暗くなってゆく灯心を消すことのない主」(イザヤ書42章3節)

光よ、主よ、来てください。

(K)