今年2月の誕生日で87歳になりました。
長くもあり、短くもあり…。やっぱり長かったと思います。太平洋戦争の中にあった小学校1年から女学校を卒業するまでの10年間が、いちばん長かったように思います。
小学校6年生の時、お国のために何かできる事がないかと思い、友達と相談し、二人で新町通り(青森)のデパートの前に立ち、「国防献金お願いしまーす」と通る人に募金を呼びかけました(当時、先生の許可があれば募金運動ができました)。集まったお金を東奥日報社へ届けました。後に東條英機の名前で感謝状が届きました。振り返ってみて、とても恥ずかしいような、悔しいような気がします。
女学校の4年間は、半分位は勤労奉仕だったと思います。いちばん苦しかったのは、自分の体重とあまり変わらない重さの鉱石を背負って、崖のような所を何度も往復し、運ぶ作業でした(ノルマが与えられていましたから)。
砂糖や甘いお菓子など無い時代でしたから、幼い姪二人が酢をなめて「甘いね」と言ってニッコリ笑顔を見せました。
笑えないです。
小学校の音楽の時間では、戦争に関係あるものが多くて楽しくありませんでした。低学年では「今日も学校へ行けるのは~~兵隊さんの~おかげです~」とか、高学年では「敵艦見えたり~近づきたり~~~~各員(かくいん)奮励(ふんれい)努力せよと」などと歌っていました。
今、若さの中にある方々、18歳から選挙権も与えられましたし、自由に発言できる時代を大切にしてください。いつまでも平和でありますように希望を託したいと思います。
私はすり足で歩くような、おぼつかない足取りで生きておりますが、いつの日か、神様がみもとに引き寄せてくださると信じて、生きてまいりたいと思います。
(C.K.)
私は43歳ですのでちょうど姉の半分の道程ですね。
今の時代を一所懸命生きる人、これから社会に漕ぎ出す人に姉や戦争の時代を生きた人の記憶が染みとおって、自由や歓びの素になってくれると良いなあと思います。
今日は快晴で開花した桜の下で「おとずれ」第116号を読んでいました。牧師先生の説教は聖書と日常との架け橋となってくれますが、世界祈祷日のメッセージもリアル時事と平和やこれから歩むべき道程の道標になってくれたなあと感じました。