青森松原教会ホームページ

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04月

祈ることをやめません

受洗した時に頂いたお祈りの本からヘンリ・ナウエンの祈りを紹介します。

祈ることをやめません

愛する主よ、心がひどく動揺し、騒いでいても、そこには慰められる想いもあります。たぶんあなたは、私が感じたり、味わったり、理解もできない仕方で、私の内で働いておられるのでしょう。あなたに集中できず、心が落ち着かず、乱れています。あなたがここにおられず、見捨てられたように感じています。
でも信仰によって、あなたにすがりつきます。あなたの聖霊は私の想いや心よりさらに深く、さらに奥まで達しておられ、またその働きの初めは、気づかないくらい密やかであると信じます。
ですから主よ、諦めもしません。祈ることも止めないと約束します。たとえ、すべてが無駄で、無意味で、時間と労力の浪費かのように見えても。あなたの愛を感じられないときも、あなたを愛していること、そして絶望感に襲われがちでも、あなたに希望を置いていることを知ってください。

こうしたことが、私よりはるかに深く苦しんでいる世界の幾百万の人々と連帯する経験となり、私にとって、あなたと共なる、またあなたのための、小さな死でありますように。 
(ヘンリ・ナウエンの祈りより)         (すぬこ こと S.K.)

棕梠の主日

 2022年4月10日(日)は、受難節の最後の主日、第6主日の礼拝です。主イエスのこの地上での最後の一週間という意味で、この週を特に受難週ということはよく知られている通りです。福音書の記事によれば、この最後の一週間の最初の日、日曜日には私たちがマタイによる福音書21章2節の記事を通して示されますように、主イエスがろばの子にまたがってエルサレムに入城されました。それは王としての入城を思わせる情景でした。

 その週のことは福音書に詳細に記されていますが、今週の木曜日(14日)に例年のように、教会では洗足の木曜日の祈祷会が持たれますが、これは受難週の木曜日に主イエスが弟子たちと最後の晩餐を持たれたことを偲ぶ行事です。

 その夜、主は逮捕され、裁判にかけられ、翌日の金曜日にゴルゴタの丘で十字架刑により処刑されてこの地上の御生涯を終えられたのでした。このことを覚えて教会では受難日祈祷会が持たれます。その金曜日を入れて、ユダヤ人の安息日である翌日の土曜日を経て三日目の日曜日の早朝に、主が死者のうちから甦り復活されたことを聖書は私たちに告げております。そのようなわけで来週の主日(4月17日)は復活祭イースターの記念の主日なのです。そのような一連の事柄の出発点として、私たちはエルサレム入城を覚える主日をご一緒に迎えているのです。

 この受難週は、昔から棕梠の主日、パームサンデーと言われてきました。これはマタイ、マルコ、ルカといったいわゆる共観福音書ではなくて、ヨハネによる福音書12章にありますエルサレム入城の記事の中に次のような描写があるからです。

「その翌日、祭りにきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った」(ヨハネ12・12-13、口語訳)

 あるいはもうお気づきの方もおられるかも知れませんが、この聖書の箇所は私たちが現在使っております新共同訳聖書ではそうなっていません。そこでは次にようになっています。「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た」(ヨハネ12・12-13、新共同訳聖書)つまり「しゅろ」は、新共同訳聖書では「なつめやし」と訳されているのです。

 キリスト新聞社から出ている『新共同訳聖書辞典』の「なつめやし」の項目で、それがシュロ科の常緑高木であって、聖書に「しゅろ」と訳されているものも、多くはこの「なつめやし」を指すと説明されていますので、やはり新共同訳の方がより適切な訳語だと言えましょう。しかし、だからと言って、棕梠の主日は今後なつめやしの主日と言うべきである、などと申しているわけではありませんが、この日がどうして棕梠の主日と言われるようになったのか、という由来だけはきちんと知っておいた方がよいでしょう。 牧師 半澤洋一