青森松原教会ホームページ

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2022年

棕梠の主日

 2022年4月10日(日)は、受難節の最後の主日、第6主日の礼拝です。主イエスのこの地上での最後の一週間という意味で、この週を特に受難週ということはよく知られている通りです。福音書の記事によれば、この最後の一週間の最初の日、日曜日には私たちがマタイによる福音書21章2節の記事を通して示されますように、主イエスがろばの子にまたがってエルサレムに入城されました。それは王としての入城を思わせる情景でした。

 その週のことは福音書に詳細に記されていますが、今週の木曜日(14日)に例年のように、教会では洗足の木曜日の祈祷会が持たれますが、これは受難週の木曜日に主イエスが弟子たちと最後の晩餐を持たれたことを偲ぶ行事です。

 その夜、主は逮捕され、裁判にかけられ、翌日の金曜日にゴルゴタの丘で十字架刑により処刑されてこの地上の御生涯を終えられたのでした。このことを覚えて教会では受難日祈祷会が持たれます。その金曜日を入れて、ユダヤ人の安息日である翌日の土曜日を経て三日目の日曜日の早朝に、主が死者のうちから甦り復活されたことを聖書は私たちに告げております。そのようなわけで来週の主日(4月17日)は復活祭イースターの記念の主日なのです。そのような一連の事柄の出発点として、私たちはエルサレム入城を覚える主日をご一緒に迎えているのです。

 この受難週は、昔から棕梠の主日、パームサンデーと言われてきました。これはマタイ、マルコ、ルカといったいわゆる共観福音書ではなくて、ヨハネによる福音書12章にありますエルサレム入城の記事の中に次のような描写があるからです。

「その翌日、祭りにきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った」(ヨハネ12・12-13、口語訳)

 あるいはもうお気づきの方もおられるかも知れませんが、この聖書の箇所は私たちが現在使っております新共同訳聖書ではそうなっていません。そこでは次にようになっています。「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た」(ヨハネ12・12-13、新共同訳聖書)つまり「しゅろ」は、新共同訳聖書では「なつめやし」と訳されているのです。

 キリスト新聞社から出ている『新共同訳聖書辞典』の「なつめやし」の項目で、それがシュロ科の常緑高木であって、聖書に「しゅろ」と訳されているものも、多くはこの「なつめやし」を指すと説明されていますので、やはり新共同訳の方がより適切な訳語だと言えましょう。しかし、だからと言って、棕梠の主日は今後なつめやしの主日と言うべきである、などと申しているわけではありませんが、この日がどうして棕梠の主日と言われるようになったのか、という由来だけはきちんと知っておいた方がよいでしょう。 牧師 半澤洋一

バリデーションのテクニック3「リフレージング(本人の言うことを繰り返す)」

認知症の人は、相手が自分の言うことを繰り返して、それが確認されると安心します。この時、同じ言葉を繰り返すだけでなく、声の大きさや抑揚なども、できるだけ本人と同じようにします。もし本人が早口で言ったなら、介護者も早口で話すべきです。
 認知症の人が話すことに対して、間違っていたとしても批判したり怒ったりせず、その方の状況を把握し理解して、リフレージングしてあげることで、スムーズなコミュニケーションが図れるようになります。

 以上、今回は「リフレージング(本人の言うことを繰り返す)」についてお伝えしました。雪が解けて、暖かくなってきました。散歩するのもいいですね。 (Y・K)

2022年3月13日 説教録音

説教題「ご覧なさい、あなたの子、見なさい、あなたの母」
説教者 半澤 洋一 牧師 
聖書 詩編18編2-7節 ヨハネ福音書19章16b-27節
讃美歌21 18番

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。(フィリピの信徒への手紙4章11節)

 すべての慰めを絶たれたパウロは、牢獄でこの言葉を記録した。

こんな話がある。                               一人の王がある朝自分の庭園に入って、どの草木も元気をなくして死にかけているのを見出した。彼は門の入り口に立っていたならの木にそのわけをたずねた。ならの木はそれに答えて、自分は松の木のように背が高くのびないばかりか、立派でないから生きているのがいやになった、と答えた。また、松の木は松の木で、ブドウの木のように実を結ぶことができないから全く生きがいがなくなった、と答えた。またブドウの木は、桃ノ木のようにひとりで直立して、見事な実を結ぶことができないからやけくそになった、と言った。またゼラニウムはライラックのように背が高く、又香り高くならないからと言ってすねていた。そして、庭中がこんな有様であった。

 王は最後に三色すみれの所に来たが、その輝いた顔はいつものように嬉しそうであった。「ヤア、三色すみれ、誰も皆がっかりしているのに、この勇敢な小さい花を見出したのはうれしい。君は少しも失望していないようだ。」「ハイ、わたしは取るに足らないものですけれどこう考えています。もしあなたが、ならや、松の木や、ももや、ライラックがほしければそれを植えたでしょう。しかし、あなたは三色すみれをほしくてわたしを植えて下されたと思いますから、わたしは最上のすみれになる決意でおります。」と答えた。

他の人たちは更に大きな働きをしよう
けれども君は君のなすべき分を持っている
そして神の民たちの中に
君の仕事は君のようによく出来る者はいない
 レテー・B・カウマン著「荒野の泉」より    R・H