青森松原教会ホームページ

青森松原教会は128年の歴史を持つ、キリスト教の教会です。

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神さまはひとつの窓を閉めると必ず別の窓を開けてくださる

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神さまは真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

(コリントの信徒への手紙一 10章13節)

2020年4月8日(水)20時11分、岡田クニ姉が天に召されました。81歳のご生涯でした。青森松原教会で2006年から2014年まで長老をなさり、教会婦人会連合でも長い間活躍なされた方でした。葬儀は4月11日(土)、当教会の礼拝堂でストーブをつけながら窓や扉は開けたままという形でしめやかに執り行われました。本来であればクニ姉と共に奉仕をなされた方々に広くお知らせしたいところではございましたが、新型コロナウィルスが猛威をふるう中、葬儀のお知らせは近隣教会に対してだけなどごく狭い範囲にとどまらせていただきました。

私個人の思い出を語らせていただきますが2014年の復活祭で洗礼を受け、信仰の導き手が岡田クニ姉でした。優しく教えていただきましたけれど、それから間もなく入院なされてしまい、あまりお話できなくなってしまったのが残念です。

4月3日(金)の夜に青森市で新型コロナウィルスに感染した方が出たことがニュースになりました。12日(日)の今日では22人に増えました。青森松原教会では礼拝を除き、諸集会は休止になりました。祈祷会やお茶の会、第1主日の昼食も休止です。6月に予定されていた伝道礼拝も延期になりました。

 祈祷会(正式名称は「聖書を学び祈り合う会」です)、休止は残念です。とても楽しみでしたのに。早く新型コロナウィルスに効くワクチンと薬が開発されることを祈ります。

 タイトルにした「神さまはひとつの窓を閉めると必ず別の窓を開けてくださる」ということばはキリスト教徒ではない私の叔父のものです。子どものひとりが病気で何度も手術をしなければならない人生を送り、今も闘っています。だからこそこのことばを心の慰めとしたのでしょうね。その下の引用したコリントの信徒への手紙一・10章13節は困難に立ち向かわねばならなくなった人々に贈られてきた聖書のみことばです。得体の知れないウィルスと共存することになった今は、とても身に沁みます。  (M.T.)

貧しくもせず、金持ちにもせず 箴言30章8節

私が毎日読んでいる聖書のみ言葉です。

明日のことを思いわずらいがちですが、このみ言葉を信仰をもって読んで祈るにようになってから、ちょうどよく与えられるようになりました。

決して豊かではないけれど、確かに貧しくない。そんな毎日に感謝しています。お金のことだけではなく、毎日の願いごとも、心配なことも、思い煩う必要のないことを思い知らされております。

祈ってさえいれば、神様は必ず守ってくださることを感じています。主にありて。(N. T.)

愛のほほえみ

「愛と自由のことば」(一日一章)を読んで、修道女テレジアの“愛のほほえみ”に共感を覚えたので、記してみたいと思います。

―――修道院の中には、もちろん仇(かたき)はおりませんが、やはりここにも自然に好きな人と嫌いな人がありまして、ある人の側には知らず知らずひきよせられ、ある人には回り路をしてでも会うことを避けたりいたします。

・・・以前、何かにつけて事々に私が不快の感を抱かずにはいられなかった一人の修道女がおりました。それには確かに悪魔の手が加わっておりまして、私はその悪魔にあやつられて、彼女の嫌な点ばかりを見ておりました。どうかして、この自然の隔意(うちとけない心)に打ち克ちたい、そうだ、愛はただ心におさめておくばかりでは足りず、行為に表さなければならないと思いつきましたので、私は全力を尽くして、この姉妹の最愛の友を扱うように扱いはじめました。そして彼女に出会う度に、その為に祈り、またその功績の全てを主の前に数え並べました。全てどのような名匠も、おのれの手の業を讃えられて喜ばぬことはございません。・・・私にそのような自己抑制の機会を備えてくれた姉妹の為に、ついには、ただ祈ることだけでは心足らず、私は彼女にできるだけの奉仕を献げ、また不愉快な返答をしそうになる時は、大急ぎでほほえみ、また談話の向きをかえるようにいたしました。・・・彼女はある日、真に喜ばし気なほほえみを浮かべて申しました。「テレジア童貞よ、私のうちに、何かあなたをそれほどひきつけるものがあるのでしょうか?また、お目にかかるごとに何も言わぬ御親切なほほえみで迎えていただきますので・・・。」

 ああ、私の心を引きつけるもの、それは彼女の霊の奥深き所に住み給う主イエス、もっとも苦きものを甘きにかえ給う主イエスでございます。―――

自分の日常を振り返ると、何と悪魔にあやつられていることの多いことか。しかも、修道女テレジアのように反省し、相手の為にも自分の為にも祈り、自然のうちとけない心に打ち克ちたい、愛は行為に表さなければと思い、相手を最愛の友と同様に扱って、相手の良い点を讃え、ついには相手から喜ばし気なほほえみを返されるようになり、その彼女の霊の奥深い所に住まわれる主イエスを見るのです。我が人生、70年以上を経た今でも、毎日反省することの多い日々を過ごしています。

修道女テレジアのようには出来ませんが、少しでも彼女に倣い、前向きに考え、祈りを重ねる、主に喜んでいただけるようになりたいと思います。(R. E.)

「愛のあるところに神あり」

トルストイの民話集のなかに「愛のあるところに神あり」という小品があります。それをかいつまんでご紹介します。

      *  *  *

主人公はマルツィン・アフデェーイチという靴の修理屋で、地下室の小部屋に間借りし、人の足元しか見えない唯一の窓から靴の往来を眺める日課でした。彼は奥さんに先立たれ、残された3歳の男の子を育てあげ、大きくなった頃、急な病で息子を亡くしてしまったのでした。彼はあまりの淋しさに、神様に死を願い、神様に不平を言うほどになりました。ある時、彼のところへ、8年も巡礼していた同郷の老人が訪ねてきたので、彼は「もう死にたい」と悲しみを訴え始めました。すると老人は「おまえが言うことはまちがっているよ。世の中のことは、わしらの知恵にはなくて、神さまのお心にあることだからね。それをおまえが落胆しているのは、おまえが自分だけの喜びのために生きようとしているからじゃよ。」「じゃ人間はなんのために生きればいいんですかね?」「神さまのためにさ、マルツィン。おまえに命を下されたのは神さまじゃから、神さまのために生きなければならんのさ。」「じゃ、いったいどうすれば、神さまのために生きられるようになるんですかね?」「それはキリストさまがちゃんと教えておいて下されてるよ。福音書を読んでみなさい。そこにちゃんとどうすればいいか書いてあるから。」老人の言葉はアフデェーイチの心に深くしみこみ、新約聖書を読み始めました。読みかけてみると、とても心が安まるような気がしたので、毎日読むようになり、読めば読むほど、彼の心は静かな喜びに満ちたものになっていったのです。

ある晩、ルカによる福音書の1節、1節を自分の生活に照らし合わせながら読んでいき、ある金持ちのファリサイ人が家にイエスを招いたところで、罪深い女がイエスに罪を赦されたという話を読みます。そして、7章の44節に行き当たります。イエスは(不満そうな金持ちのファリサイ人に向かって)「あなたは・・・してくれなかったが、この人(罪深い女)は・・・してくれた。」と「足を洗う水」「接吻の挨拶」「香油のもてなし」について語ります。アフデェーイチは考え始めます。「このファリサイ人というのは、どうやらわしのような人間だったにちがいない。わしもきっと自分のことは考えるが、お客さんのことなんぞ考えないにちがいない。ところで、お客さんとは誰のことだろう?主ご自身なのだ。もし主がわしのところへお出でになったら、わしも同じことをしたんじゃなかったろうか?」そう考えているうちにいつのまにか眠ってしまいました。すると『マルツィン、マルツィン、明日往来を見ておれよ、わしが行くから』という声がはっきり聞こえたのです。

翌朝、あの声は夢か現かと考えながら、その日はいつもより余計に窓の外を見ていました。古い長靴に目を留め、隣家にお情けで雇われているステパーヌイチ老人が雪かきをしているのを見ます。「やれやれ、ステパーヌイチが雪かきしているのを、キリストさまがわしのところへおいでなすったのだと思った。わしもやきがまわったもんだ。」しかし、しばらくしてまた見ると、ステパーヌイチがぼんやりたっているのが目に入りました。「年取って疲れ切っているんだろう。お茶の一杯もふるまってやったらどうだろ。」と、アフデェーイチはステパーヌイチを部屋に招き、暖かいお茶を何杯かふるまい、キリストさまを待っている話をしたのです。ステパーヌイチ老人は「心もからだも養ってくださった」と言いました。その後もいろいろな靴が通り過ぎてゆき、粗末な靴が立ち止りました。下からみるとみすぼらしい夏服(冬なのに)の女が泣いている赤子を抱えて壁際に立っているのでした。アフデェーイチは女を暖炉のそばに招き入れると、シチューとパンをふるまい、「キリストさまのためにこれをお取り」とショールを質から受けだすための20カペイカ銀貨と赤子をくるめる胴着を渡して送り出すのです。それからもさまざまな人が通り過ぎ、ふと物売りのおばあさんに気づきます。男の子がりんごをつかんで逃げ出そうとしたところをおばあさんが捕まえます。アフデェーイチは出てきて、男の子を許してあげるようとりなし、男の子にはあやまるよう諭します。そして福音書のたとえ話をきかせます。はじめは怒りでおさまらないおばあさんでしたが、孫を思い出し、許す気持ちになり、すると男の子もおばあさんの荷物をもって手伝う気持ちになります。ふたりを見送るともう暗くなっていたので、灯りをつけて福音書を開きながらアフデェーイチは昨日の夢を思い出します。

すると後ろに気配を感じ、『マルツィン、マルツィン、おまえにはわしがわからないのかね?』という声を聞きます。「誰だね?」『ほら、これがわしだよ。』と、ステパーヌイチ老人がにっこり笑い消えてしまいました。『これもわしだよ。』と、赤子を抱いた夫人が微笑み、これも消えてしまいました。『これもわしだよ。』と、おばあさんと男の子が出てきて笑い消えてゆきました。アフデェーイチは開いていた福音書の言葉「汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり。」を読みます。そして、アフデェーイチは、まさしくこの日、彼の所へキリストさまが来られたのだということ、自分が彼を正しく迎えたということを、悟ったのでした。

(ペンネーム:すぬこ)こと(S.K)

今回は、「バリデーション」の原則についてお伝えしたいと思います。

1.すべての人はそれぞれ個性があり個別な存在です。ですから、必ず一人ひとり個別に対応しなければなりません。
2.たとえ彼らが混乱した認知症の状態であったとしても、すべての人は人間として貴重な価値のある存在です。
3.認知症の方の混乱した行動の裏には、必ず理由があります。
4.認知症の行動は単に脳の構造上の機能変更だけでなく、加齢によって長い人生の中で起こる身体的、社会的そして精神・心理的変化を反映します。
5.認知症の方の習慣となっている行動を強制的に変えることはできません。その方本人が、変えようと思はない限り、変えることはできません。
6.認知症の方は、無条件で受容されなければなりません。どのような形であっても偏見をもつことは許されません。
7.人はその人生の中で、さまざまな課題に突き当たりながら生きています。その課題を十分に解決できずに過ごしてきて、認知症になった時、そのことが心の中でやり残した課題として深く残っていて、それが問題行動として浮かび上がってきます。
8.共感と受容は信頼を築き、心配を減らし、尊厳を取り戻します。認知症の方の状況を本当に心から理解すれば、その方に対する介護の心構えが強くなります。
  以上、「バリデーション」は基本的な人間としての価値観と信念を前提としています。
  次回は、「バリデーション」の実践について記載したいと思います。
                                         (Y・K)

「愛のあるところに神あり」

トルストイの民話集のなかに「愛のあるところに神あり」という小品があります。それをかいつまんでご紹介します。

      *  *  *

主人公はマルツィン・アフデェーイチという靴の修理屋で、地下室の小部屋に間借りし、人の足元しか見えない唯一の窓から靴の往来を眺める日課でした。彼は奥さんに先立たれ、残された3歳の男の子を育てあげ、大きくなった頃、急な病で息子を亡くしてしまったのでした。彼はあまりの淋しさに、神様に死を願い、神様に不平を言うほどになりました。ある時、彼のところへ、8年も巡礼していた同郷の老人が訪ねてきたので、彼は「もう死にたい」と悲しみを訴え始めました。すると老人は「おまえが言うことはまちがっているよ。世の中のことは、わしらの知恵にはなくて、神さまのお心にあることだからね。それをおまえが落胆しているのは、おまえが自分だけの喜びのために生きようとしているからじゃよ。」「じゃ人間はなんのために生きればいいんですかね?」「神さまのためにさ、マルツィン。おまえに命を下されたのは神さまじゃから、神さまのために生きなければならんのさ。」「じゃ、いったいどうすれば、神さまのために生きられるようになるんですかね?」「それはキリストさまがちゃんと教えておいて下されてるよ。福音書を読んでみなさい。そこにちゃんとどうすればいいか書いてあるから。」老人の言葉はアフデェーイチの心に深くしみこみ、新約聖書を読み始めました。読みかけてみると、とても心が安まるような気がしたので、毎日読むようになり、読めば読むほど、彼の心は静かな喜びに満ちたものになっていったのです。

ある晩、ルカによる福音書の1節、1節を自分の生活に照らし合わせながら読んでいき、ある金持ちのファリサイ人が家にイエスを招いたところで、罪深い女がイエスに罪を赦されたという話を読みます。そして、7章の44節に行き当たります。イエスは(不満そうな金持ちのファリサイ人に向かって)「あなたは・・・してくれなかったが、この人(罪深い女)は・・・してくれた。」と「足を洗う水」「接吻の挨拶」「香油のもてなし」について語ります。アフデェーイチは考え始めます。「このファリサイ人というのは、どうやらわしのような人間だったにちがいない。わしもきっと自分のことは考えるが、お客さんのことなんぞ考えないにちがいない。ところで、お客さんとは誰のことだろう?主ご自身なのだ。もし主がわしのところへお出でになったら、わしも同じことをしたんじゃなかったろうか?」そう考えているうちにいつのまにか眠ってしまいました。すると『マルツィン、マルツィン、明日往来を見ておれよ、わしが行くから』という声がはっきり聞こえたのです。

翌朝、あの声は夢か現かと考えながら、その日はいつもより余計に窓の外を見ていました。古い長靴に目を留め、隣家にお情けで雇われているステパーヌイチ老人が雪かきをしているのを見ます。「やれやれ、ステパーヌイチが雪かきしているのを、キリストさまがわしのところへおいでなすったのだと思った。わしもやきがまわったもんだ。」しかし、しばらくしてまた見ると、ステパーヌイチがぼんやりたっているのが目に入りました。「年取って疲れ切っているんだろう。お茶の一杯もふるまってやったらどうだろ。」と、アフデェーイチはステパーヌイチを部屋に招き、暖かいお茶を何杯かふるまい、キリストさまを待っている話をしたのです。ステパーヌイチ老人は「心もからだも養ってくださった」と言いました。その後もいろいろな靴が通り過ぎてゆき、粗末な靴が立ち止りました。下からみるとみすぼらしい夏服(冬なのに)の女が泣いている赤子を抱えて壁際に立っているのでした。アフデェーイチは女を暖炉のそばに招き入れると、シチューとパンをふるまい、「キリストさまのためにこれをお取り」とショールを質から受けだすための20カペイカ銀貨と赤子をくるめる胴着を渡して送り出すのです。それからもさまざまな人が通り過ぎ、ふと物売りのおばあさんに気づきます。男の子がりんごをつかんで逃げ出そうとしたところをおばあさんが捕まえます。アフデェーイチは出てきて、男の子を許してあげるようとりなし、男の子にはあやまるよう諭します。そして福音書のたとえ話をきかせます。はじめは怒りでおさまらないおばあさんでしたが、孫を思い出し、許す気持ちになり、すると男の子もおばあさんの荷物をもって手伝う気持ちになります。ふたりを見送るともう暗くなっていたので、灯りをつけて福音書を開きながらアフデェーイチは昨日の夢を思い出します。

すると後ろに気配を感じ、『マルツィン、マルツィン、おまえにはわしがわからないのかね?』という声を聞きます。「誰だね?」『ほら、これがわしだよ。』と、ステパーヌイチ老人がにっこり笑い消えてしまいました。『これもわしだよ。』と、赤子を抱いた夫人が微笑み、これも消えてしまいました。『これもわしだよ。』と、おばあさんと男の子が出てきて笑い消えてゆきました。アフデェーイチは開いていた福音書の言葉「汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり。」を読みます。そして、アフデェーイチは、まさしくこの日、彼の所へキリストさまが来られたのだということ、自分が彼を正しく迎えたということを、悟ったのでした。

(ペンネーム:すぬこ)こと(S.K)

御言葉を毎週守ることの大切さ、大変さ

今日は日曜日。

でも私は風邪をひいて、布団の中に居ます。

でも、12月22日のブログの日を気にしていましたら今日のことを書こうと思い立ち書こうとしています。

しばしの虚無感を感じながら、日曜日はやはり教会で礼拝を守るのが一番と思いながら、それができなかったことを反省しています。そう思うとそれができない日や多くの病に苦しむ人たちのことを思います。また、教会に来たくてもこれない人たちのことも思い、私は良い方なのかもしれないと思います。

「安息日を心に留めこれを聖別せよ」出エジプト記20:8

この御言葉を毎週守ることの大切さ、大変さを今日、改めて感じました。(N. T. )

メィク・ア・ウィッシュ夢の実現が人生を変えた

この本の著者、大野寿子さんの講演を聞いたのは11月15日。青森県黒石市の日本キリスト教団黒石教会においてであった。

「メィク・ア・ウィッシュ」の活動は、難病と闘う子ども達に、単にカンバレ、ガンバレと言うのではなく、病気のままでも“夢をあきらめるな!”と、その子ども達の夢の実現のために、家族の費用も無償で、準備のすべてを手配する、アメリカで生まれ、今、世界中で45万人のボランティア団体の活動である。

 この講話の中で、大野さんは、いくつもの例を話されたが、その中の一例を、講話と本で読んだ内容をおり混ぜて記したい。

 吉村和馬くんは筋ジストロフィーの患者さんである。お父さんは医者から病気のことを告げられた時、「歩けるうちに、たくさん旅をさせたい」と思った。できるだけ自力で、常に目標を立て、それを1つずつクリアさせようとした。また、お母さんは和馬くんの病気がわかった時、「もう一生、笑うことはない」と思いつめていたが、後には「どうせだったら、ええ顔して生きて行こうやないの」と笑顔で言うようになった。車イスで旅をするようになり、家族みんなの心が一つになった。

 和馬くんは小学3年生の時の作文の最後にこう書いています。

ぼくは、この病気になって神様からいろんな宝物をもらいました。それは友達とか仲間です。病気は治ってほしいけど、筋ジスはぼくのトロフィーです。

 以前からの目標であった車イスでの阪急電車沿線の旅のゴールを迎えたら、今度は阪神電車に乗り換え、大好きな阪神タイガースの本拠地がある甲子園駅をめざそう! とすでに決めていた。

 「メィク・ア・ウィッシュ」で夢をかなえられると知った時、「憧れの存在だった、阪神タイガースの赤星選手に会いたい」が和馬くんの夢だった。この夢が実現した時、  

和馬くんは赤星選手に手紙を書いていた。

ぼくは病気で走れないので、病気が治ったら赤星さんみたいに走りたいです。それから、変化球の投げ方を教えてください。応援してます。

 赤星選手は「治ったら、一緒に走ろうな!一緒に走ったる!」と。

 大野さんの活動の中で、夢をいだきながらも、その夢を実現できなかった難病の子ども達の重荷に直面した時、“神様なぜですか?”と、この問いを繰り返すことしかできなかったと言う。

 大野さんは「メィク・ア・ウィッシュ」の職を退いたあとも、その活動の“種まきおばさん”として、講演活動を続けている。この活動の原動力となったキーワードは「夢、笑顔、喜び」であり、一言で言うと、この活動の素晴らしさである。

 “はじめは「難病と闘う子ども」という限られた世界に向けての発信だと思っていたのが、大人も子どもも病気も健康も関係なく、全ての人間に関わる「生きる力」という言葉へ直結する深い活動だ、ということに気づくようになった。”と、本の後書きに記していた。

 この活動の支援の輪が、より一層拡がることを祈ります。(R. E.)

今年度は10月19日(土)がバザーです。

いよいよバザーがやってきます。例年9月に行っていたので、数件の問い合わせの電話はあったようですが、今年度は都合により10月19日(土)になりました。午前11時から午後1時30分までです。

 いいものがたくさんありますので、是非おいでください。

 9月の16日・17日に連合婦人会の「集い」がありました。今年は浅虫温泉で行われました。この会に参加するのにもいろいろな楽しみがありますが、その中のひとつに本を実際に手に取って試し読みができるということです。キリスト教関連の本は一般書店ではなかなかなくて、書評を読んで取り寄せるしかないことが普通です。あるいは誰かの感想を聞いたりしたりとか。そんな中、「集い」には書籍の販売もまず一緒にくるので楽しみにしています。

 静岡市に本店がある戸田書店が青森市で11年間がんばりましたが、9月29日(日)を最後に撤退していきました。けっこうキリスト教関連の本がたくさんあったところでしたので、残念です。新しい聖書でさえ売っていたのですよ。兄が静岡市に住んだことが30年くらい前にあり遊びに行った時、戸田書店に立ち寄ったことがありました。本屋さんの名前は覚えていませんでしたが、サービスでくれる栞やカレンダーの挿絵が花森安治氏だったのです。『暮しの手帖』の。現在でも変わっておらず、あの時立ち寄ったのは戸田書店だったのかと懐かしく思いました。そんな本屋さんでしたので、とても残念です。

 「集い」で買った本の中に『バイブル・ストーリーによる真理発見』(浜崎英一著、地引網出版刊)があります。素人であってもどんどん聖書の素晴らしさを語って伝道しなさい、かつては印刷物などなくて口伝で御言葉は伝えられたのですから、ということが書いてありました。なかなかできることではないなぁと思っていましたが、同じ教会の中では実践している方もいらっしゃるそうです。私も頑張ろうと思いました。(M. T.)

主の祈り

「赤毛のアン」ご存知ですか?カナダの女流作家モンゴメリの作品で、世界一美しい島プリンスエドワード島を舞台に、孤児のアンがマシューとマリラの兄妹の家に引き取られて成長してゆく物語です。女の子なら読んでいる方が多いのでは?マリラがアンに最初に教えたのが主の祈りでした。アンの感想は「あたしこれ好きだわ。とても美しいんですもの。」1880年訳での主の祈りは以下です。

天にましますわれらの父よ。

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

われらの日用の糧を今日も与えたまえ。

われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。

われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり。

アーメン

さて、今は認知症の父を介護しています。認知症というのは症状にムラがあって、たまにしか会わない人には普通に応対するのに、最も身近な人に対して暴言を吐くのです。最も安心できる相手だからこそ、逆らったり、うすうす自覚している不安からくる怒りをぶつけたりひどい言葉をぶつけるのであり、病気だから仕方ないのです。と理屈ではわかっているのですが、繰り返しひどい言葉をきかされると、うんざりすることがあります。否定の言葉は逆効果なのですが、ついつい否定したくなります。そんな時に、主の祈りを唱えてみるのです。(病気であって罪なのではないですが・・・)すると、心が落ち着いてくるのです。そして、父の怒りなどを受け入れる余裕がでてくる気がします。また、アルバイトで苦情の電話を受けて怒りをぶつけられた時など、その怒りの残響が心に残ったりすることがありますが、そんな時も、主の祈りを心で復唱すると、その残響が洗い流されていく気がします。

あわただしい現代、怒りたくなるような場面にでくわすことも多いかと思います。そんな時に試してみてはいかがでしょうか?

(ペンネーム:すぬこ)こと(S.K)