青森松原教会ホームページ

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07月

『赤ちゃんを救え』

何事かと思うような表題ですが、何年も本棚に積んだままになっていた本の題名です。

正確には、『移植病棟24時 赤ちゃんを救え!』著者:加藤友朗(ともあき)。

 先日、テレビのチャンネルを切り替えていた時、たまたまバンキシャの放映中。新型コロナウィルスの報道で、ニューヨークで医者をしている日本人がコロナに感染し、3週間意識不明から意識が戻り、今リハビリ中ということで本人との中継でした。本人曰く、最初ちょっと熱が出てるなと思って、体内酸素濃度も測ったり様子を見ていたが、3日後位のシャワーを浴びていた時、突然呼吸困難になり入院。その後意識不明でエクモ使用で生還されたのだそうです。「まだ腕が上に上がらない。外科医なので、これでは困るのだが、8月からは手術に入りたい」と言ってたその様子を観ながら、「この人って、まだ読んでいない本の著者じゃない?」と思って、本棚の本を手にしたら、やはりそうでした。加藤友朗!!柔らかな雰囲気を持つ方です。

 現在は、ニューヨークのコロンビア大学医学部の教授をされていますが、本が出版された2007年当時は、マイアミのジャクソン記念病院で移植外科医、特に赤ちゃんを含む小児移植に情熱を注いでおられました。臓器移植では世界に名を知られている医師です。

 爆発的な感染者を出したニューヨークでは、医療の最前線に立つ人たちも容赦なく危険にさらされたのだと思わされた。日本でも医療者の方々、特に感染者と直接に接する方々は心身共に極限的緊張を強いられていることと想像されます。

 そのようなきっかけから再び本を手にして、今度は全部読み通しました。

時々ニュースになる小児の臓器移植。私たちが知るのは、米国で手術をするために、親や支援者が募金を呼びかける映像です。

 日本と米国とでは臓器移植についての認識と法律的なものが大きく異なり、日本でできる臓器移植は範囲が狭いし、症例も少ないことから、米国での手術ということになるようです。さらに米国で手術となると、2007年当時で1億円が目安とのこと。

 お金持ちしか手術できない?という訳ではなく、米国人の子どもだったら、メディケードと言われる保険が適用され、自己負担がないということですが、外国人にとっては巨額が必然。そのようなことを含め、今まで知らなかった臓器移植のことを知ることができました。ドナーである脳死の赤ちゃんの胃、膵臓、肝臓、小腸、大腸をそっくり、移植される側の赤ちゃんに移すという手術のことも書かれています。赤ちゃんは赤ちゃん同士でないと臓器のサイズが合わないのだそうです。これより命の道がないという壮絶な病状の赤ちゃんたち。

 この本を読んで感動したのは、加藤医師の外科医として卓越した腕を持ち、更に上を目指すという情熱だけではなく、ほんとに温かな心で患者さんと家族はもとより、募金活動をする支援者たちへも直接話しかけ、自分の医師としての気持ちを伝え、退院したあとも、フォローし続ける姿に対してです。

 南米ベネズエラの10ヶ月の病児の子どもを持つ母親からの必死の電話が発端で、マイアミまで来るのが難しかったら、自分が出向けばいいんだと無い時間の隙間を見つけて行動を起こす加藤医師。いろんなお医者さんがいると思うけれど、このようなお医者さんがいることに、心に熱いものがこみあげてきます。

 イエスさまが弱い者、傷ついた者にご自分から近寄ったように私もまた、損得勘定を抜きにして行動する者でありたいと願っています。

 加藤医師の体調が快復され、手術に復帰される日が早くきますように、日本はもとより世界のコロナも一日も早く収束することを願いつつ。(S. K. )

説教録音2020年6月7日

説教 「求めよ、そうすれば与えられる」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 申命記6章4-5節 ルカによる福音書11章1-13節 

説教録音2020年6月14日

説教題 「神の指で」 説教者 半澤洋一 牧師
聖書 イザヤ書49章22-26節 ルカによる福音書11章14-23節 

神さまはひとつの窓を閉めると必ず別の窓を開けてくださる

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神さまは真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

(コリントの信徒への手紙一 10章13節)

2020年4月8日(水)20時11分、岡田クニ姉が天に召されました。81歳のご生涯でした。青森松原教会で2006年から2014年まで長老をなさり、教会婦人会連合でも長い間活躍なされた方でした。葬儀は4月11日(土)、当教会の礼拝堂でストーブをつけながら窓や扉は開けたままという形でしめやかに執り行われました。本来であればクニ姉と共に奉仕をなされた方々に広くお知らせしたいところではございましたが、新型コロナウィルスが猛威をふるう中、葬儀のお知らせは近隣教会に対してだけなどごく狭い範囲にとどまらせていただきました。

私個人の思い出を語らせていただきますが2014年の復活祭で洗礼を受け、信仰の導き手が岡田クニ姉でした。優しく教えていただきましたけれど、それから間もなく入院なされてしまい、あまりお話できなくなってしまったのが残念です。

4月3日(金)の夜に青森市で新型コロナウィルスに感染した方が出たことがニュースになりました。12日(日)の今日では22人に増えました。青森松原教会では礼拝を除き、諸集会は休止になりました。祈祷会やお茶の会、第1主日の昼食も休止です。6月に予定されていた伝道礼拝も延期になりました。

 祈祷会(正式名称は「聖書を学び祈り合う会」です)、休止は残念です。とても楽しみでしたのに。早く新型コロナウィルスに効くワクチンと薬が開発されることを祈ります。

 タイトルにした「神さまはひとつの窓を閉めると必ず別の窓を開けてくださる」ということばはキリスト教徒ではない私の叔父のものです。子どものひとりが病気で何度も手術をしなければならない人生を送り、今も闘っています。だからこそこのことばを心の慰めとしたのでしょうね。その下の引用したコリントの信徒への手紙一・10章13節は困難に立ち向かわねばならなくなった人々に贈られてきた聖書のみことばです。得体の知れないウィルスと共存することになった今は、とても身に沁みます。  (M.T.)

貧しくもせず、金持ちにもせず 箴言30章8節

私が毎日読んでいる聖書のみ言葉です。

明日のことを思いわずらいがちですが、このみ言葉を信仰をもって読んで祈るにようになってから、ちょうどよく与えられるようになりました。

決して豊かではないけれど、確かに貧しくない。そんな毎日に感謝しています。お金のことだけではなく、毎日の願いごとも、心配なことも、思い煩う必要のないことを思い知らされております。

祈ってさえいれば、神様は必ず守ってくださることを感じています。主にありて。(N. T.)

愛のほほえみ

「愛と自由のことば」(一日一章)を読んで、修道女テレジアの“愛のほほえみ”に共感を覚えたので、記してみたいと思います。

―――修道院の中には、もちろん仇(かたき)はおりませんが、やはりここにも自然に好きな人と嫌いな人がありまして、ある人の側には知らず知らずひきよせられ、ある人には回り路をしてでも会うことを避けたりいたします。

・・・以前、何かにつけて事々に私が不快の感を抱かずにはいられなかった一人の修道女がおりました。それには確かに悪魔の手が加わっておりまして、私はその悪魔にあやつられて、彼女の嫌な点ばかりを見ておりました。どうかして、この自然の隔意(うちとけない心)に打ち克ちたい、そうだ、愛はただ心におさめておくばかりでは足りず、行為に表さなければならないと思いつきましたので、私は全力を尽くして、この姉妹の最愛の友を扱うように扱いはじめました。そして彼女に出会う度に、その為に祈り、またその功績の全てを主の前に数え並べました。全てどのような名匠も、おのれの手の業を讃えられて喜ばぬことはございません。・・・私にそのような自己抑制の機会を備えてくれた姉妹の為に、ついには、ただ祈ることだけでは心足らず、私は彼女にできるだけの奉仕を献げ、また不愉快な返答をしそうになる時は、大急ぎでほほえみ、また談話の向きをかえるようにいたしました。・・・彼女はある日、真に喜ばし気なほほえみを浮かべて申しました。「テレジア童貞よ、私のうちに、何かあなたをそれほどひきつけるものがあるのでしょうか?また、お目にかかるごとに何も言わぬ御親切なほほえみで迎えていただきますので・・・。」

 ああ、私の心を引きつけるもの、それは彼女の霊の奥深き所に住み給う主イエス、もっとも苦きものを甘きにかえ給う主イエスでございます。―――

自分の日常を振り返ると、何と悪魔にあやつられていることの多いことか。しかも、修道女テレジアのように反省し、相手の為にも自分の為にも祈り、自然のうちとけない心に打ち克ちたい、愛は行為に表さなければと思い、相手を最愛の友と同様に扱って、相手の良い点を讃え、ついには相手から喜ばし気なほほえみを返されるようになり、その彼女の霊の奥深い所に住まわれる主イエスを見るのです。我が人生、70年以上を経た今でも、毎日反省することの多い日々を過ごしています。

修道女テレジアのようには出来ませんが、少しでも彼女に倣い、前向きに考え、祈りを重ねる、主に喜んでいただけるようになりたいと思います。(R. E.)

「愛のあるところに神あり」

トルストイの民話集のなかに「愛のあるところに神あり」という小品があります。それをかいつまんでご紹介します。

      *  *  *

主人公はマルツィン・アフデェーイチという靴の修理屋で、地下室の小部屋に間借りし、人の足元しか見えない唯一の窓から靴の往来を眺める日課でした。彼は奥さんに先立たれ、残された3歳の男の子を育てあげ、大きくなった頃、急な病で息子を亡くしてしまったのでした。彼はあまりの淋しさに、神様に死を願い、神様に不平を言うほどになりました。ある時、彼のところへ、8年も巡礼していた同郷の老人が訪ねてきたので、彼は「もう死にたい」と悲しみを訴え始めました。すると老人は「おまえが言うことはまちがっているよ。世の中のことは、わしらの知恵にはなくて、神さまのお心にあることだからね。それをおまえが落胆しているのは、おまえが自分だけの喜びのために生きようとしているからじゃよ。」「じゃ人間はなんのために生きればいいんですかね?」「神さまのためにさ、マルツィン。おまえに命を下されたのは神さまじゃから、神さまのために生きなければならんのさ。」「じゃ、いったいどうすれば、神さまのために生きられるようになるんですかね?」「それはキリストさまがちゃんと教えておいて下されてるよ。福音書を読んでみなさい。そこにちゃんとどうすればいいか書いてあるから。」老人の言葉はアフデェーイチの心に深くしみこみ、新約聖書を読み始めました。読みかけてみると、とても心が安まるような気がしたので、毎日読むようになり、読めば読むほど、彼の心は静かな喜びに満ちたものになっていったのです。

ある晩、ルカによる福音書の1節、1節を自分の生活に照らし合わせながら読んでいき、ある金持ちのファリサイ人が家にイエスを招いたところで、罪深い女がイエスに罪を赦されたという話を読みます。そして、7章の44節に行き当たります。イエスは(不満そうな金持ちのファリサイ人に向かって)「あなたは・・・してくれなかったが、この人(罪深い女)は・・・してくれた。」と「足を洗う水」「接吻の挨拶」「香油のもてなし」について語ります。アフデェーイチは考え始めます。「このファリサイ人というのは、どうやらわしのような人間だったにちがいない。わしもきっと自分のことは考えるが、お客さんのことなんぞ考えないにちがいない。ところで、お客さんとは誰のことだろう?主ご自身なのだ。もし主がわしのところへお出でになったら、わしも同じことをしたんじゃなかったろうか?」そう考えているうちにいつのまにか眠ってしまいました。すると『マルツィン、マルツィン、明日往来を見ておれよ、わしが行くから』という声がはっきり聞こえたのです。

翌朝、あの声は夢か現かと考えながら、その日はいつもより余計に窓の外を見ていました。古い長靴に目を留め、隣家にお情けで雇われているステパーヌイチ老人が雪かきをしているのを見ます。「やれやれ、ステパーヌイチが雪かきしているのを、キリストさまがわしのところへおいでなすったのだと思った。わしもやきがまわったもんだ。」しかし、しばらくしてまた見ると、ステパーヌイチがぼんやりたっているのが目に入りました。「年取って疲れ切っているんだろう。お茶の一杯もふるまってやったらどうだろ。」と、アフデェーイチはステパーヌイチを部屋に招き、暖かいお茶を何杯かふるまい、キリストさまを待っている話をしたのです。ステパーヌイチ老人は「心もからだも養ってくださった」と言いました。その後もいろいろな靴が通り過ぎてゆき、粗末な靴が立ち止りました。下からみるとみすぼらしい夏服(冬なのに)の女が泣いている赤子を抱えて壁際に立っているのでした。アフデェーイチは女を暖炉のそばに招き入れると、シチューとパンをふるまい、「キリストさまのためにこれをお取り」とショールを質から受けだすための20カペイカ銀貨と赤子をくるめる胴着を渡して送り出すのです。それからもさまざまな人が通り過ぎ、ふと物売りのおばあさんに気づきます。男の子がりんごをつかんで逃げ出そうとしたところをおばあさんが捕まえます。アフデェーイチは出てきて、男の子を許してあげるようとりなし、男の子にはあやまるよう諭します。そして福音書のたとえ話をきかせます。はじめは怒りでおさまらないおばあさんでしたが、孫を思い出し、許す気持ちになり、すると男の子もおばあさんの荷物をもって手伝う気持ちになります。ふたりを見送るともう暗くなっていたので、灯りをつけて福音書を開きながらアフデェーイチは昨日の夢を思い出します。

すると後ろに気配を感じ、『マルツィン、マルツィン、おまえにはわしがわからないのかね?』という声を聞きます。「誰だね?」『ほら、これがわしだよ。』と、ステパーヌイチ老人がにっこり笑い消えてしまいました。『これもわしだよ。』と、赤子を抱いた夫人が微笑み、これも消えてしまいました。『これもわしだよ。』と、おばあさんと男の子が出てきて笑い消えてゆきました。アフデェーイチは開いていた福音書の言葉「汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり。」を読みます。そして、アフデェーイチは、まさしくこの日、彼の所へキリストさまが来られたのだということ、自分が彼を正しく迎えたということを、悟ったのでした。

(ペンネーム:すぬこ)こと(S.K)