青森松原教会ホームページ

青森松原教会は132年の歴史を持つ、キリスト教の教会です。

TEL:017-776-4800

 FAX:017-723-6809

〒030-0813 青森市松原1-16-27

10月

10月は青森松原教会の創立記念の月です

夏になるとエアコンの室外機から流れ出る水が庭のコンクリートのところに少したまります。植物に水をやってもそうです。その水を雀が飲みに来ます。今年は特に暑いせいかよくみかけました。私の(夏になったなぁ)と感じる歳時記みたいなものです。秋になったなぁと感じるのは、雄のシェルティ犬のバロンが居間の肘掛のある椅子に飛び乗る時でした。何故か春と夏にはやりません。秋と冬にのみ飛び乗り顔を肘掛のところに置くのです。今年(2018年)の2月に亡くなったのでもう見ることはできません。

 残ったシェルティの雌犬・サリーも左の後ろ足を骨折しました。骨粗しょう症だったのですがとうとうやってしまったのです。10月26日(金)でした。若い犬なら足を切っても残りの足で生活できるし、車いすもあります。しかし13歳と9か月という高齢犬なので、手術で悪いところを取っても体力を奪うだけになるかも知れず、積極的な治療はできませんと獣医さんから言われました。人間でいうと80歳~95歳位です。確かに大きな手術をさせるのは無理な話でしょう。今はただ、サリーが痛くないようにと安静にするのみです。

 10月27日(土)20時03分、サリーは亡くなりました。家族で看取ることができたのがせめてもの心の慰めです。

 10月は青森松原教会の創立記念の月です。127周年になりました。その記念礼拝は半澤牧師によって旧約聖書の「創世記」12章1~9節と新約聖書の「ヘブライ人への手紙」11章13~16節をもちいて『信仰を抱いて死んだ先達に続こう』と題されて説教が捧げられました。

「誰の人生にも原点となるものがある。それは言葉だったり、人だったり、本だったりする。原点はそこに立ち返り思いを新たにするところである。信仰にも原点があり、教会にも原点がある。今日は教会が生れた日である。ヘブライ書11章は信仰者列伝である。おもに旧約聖書に書いてある人がでてくる。(中略)青森にきた宣教師たちは遣わされた地に自分の骨を埋める覚悟でやってきた。神に召しだされたからである。「天の故郷」に帰るために地上の故郷は捨て去るのだ。(中略)しかし、地上の縁をすべて切るのではない。ある牧師の遺言説教に出てきた。ヨハネによる福音書20章30~31節「このほかにも、イエスは弟子の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子メシヤであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」

 神の教えを広めるために伝道に命をかける、ということなのでしょう。浅学の身ですので、説教を聞いてもよく理解できていないとは思うものの、心に残る説教でした。(M.T.)

後悔は残る

一年に何回か私には強い後悔に襲われる時があります。それは父に対する後悔です。今日はそのことを書くことにします。書いたとしても自分がそのことから逃れることはできなくて、後悔は生きている間、続くでしょう。後悔というものの根強さに呆れながら、あと何回悩まされることでしょう。

 私は1920(大正9)年11月1日に父23歳、母18歳の時に鰺ヶ沢町の長谷川時計店の長女として生まれました。ちょうど祖母が他界して淋しくなった時で、長谷川家にひとつの賑わいを持たせた存在として大事に育てられたようです。どんなに可愛がられたかというと、毎年正月に父が私ひとりだけを町一番の料理店に連れて行って立派なお膳をごちそうしてくれたことを覚えています。父としてはそれが最高の私へのもてなしだったのでしょう。昔のことですから、兄弟姉妹が多くその一番上として水汲みや子守りなど、家の手伝いを良くしました。そのことをきちんと見てくれていたのだと思います。私は幼い頃から感情を表に出さない子どもでしたので、あまりうれしそうな顔はしませんでした。そのことが父に悪かったかなと、今になれば思います。

 話は1961(昭和36)年頃にまで飛びます。戦争に負けましたが、どうやら国を建て直し始めて、日本の国を世界のひとつとして認められるようになりました。新しい文化の波に日本の国も恩恵を受けるようになってやっと胸を少し張れる時代を迎え始めるようになりました。私は結婚して奈良姓を名乗るようになりました。鰺ヶ沢の隣の木造町に夫や子どもたちと住んでいました。

 我が家にもカラーテレビが来ることになり、長男が「古い白黒テレビを自分の部屋にくれないか」と言いました。夫も私も賛成し、長男は大喜びで友達に言いふらしたりしたようです。

 ところがそれから何日もたたないうちに鰺ヶ沢の父が脳梗塞で入院することになりました。そこで、父は「木造の古いテレビを病院の部屋にくれないか」と言いました。今は入院患者ひとりにつきひとつテレビを借りることができますが、昔は違いました。自力で揃える必要がありました。私は「明夫(長男)の部屋に行ってしまった」と断りました。父は「そうか。」と言ったきりでした。

 父は時計店をするかたわら自転車店もやっていましたが、だんだんと時計を店で修理してもらう文化もなくなり店は裕福ではありませんでした。どうしてあの時、小さいテレビをひとつ、買ってあげる考えが浮かばなかったのでしょう。このことが私の胸にひっかかりいつまでも痛みを伴うのです。

 神さま、私の冷たい心をどうかお許しください。(K. N.)

気づきの時

9月17日(月)は「敬老の日」で、小学校は休みだった。

朝6時前に孫たちはすでに起きていた。いつものように朝食を準備し、食卓を整えていた時のこと。「おはしが無~い」、「牛乳持ってきて」などと、テーブルに着いたままで要求ばかりしていた。私は「自分で出来ることは自分ですること!」と言ったが、全く聞く耳が無かった。仕方がないので私が持って来て朝食が始まった。

食べ終わって後片付けの時に、「今日は何の日だっけ?」と聞いた。すると下の女の子の方が、「あっ、敬老の日だ」とつぶやいた。そのとたん彼女の目がキラリと輝いた。すると突然「バーバ、肩たたいてあげるネ」、「腕もんであげるネ」、「足も疲れたでしょう?もんであげる」と両足をもんでくれた。次に、テーブルの食器を台所に運び「バーバ、いつもご飯作ってくれてありがとう。後片づけはまかせてネ」と、洗い場を洗剤のアワいっぱいにしながらきれいに洗ってくれた。

「今日は何の日だっけ?」から始まった「気づき」の後の積極的な思いやりの行動に、私は目をみはり、小学校で校長先生や担任の先生方を通しての日頃のご指導がこのような形で身に付き、子ども達は身心共に着実に成長しているのを感じた。

恵み豊かな神さまに感謝で一杯の「敬老の日」だった。(R.E.)