説教題「心を開き、神を知ろう」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 ホセア書6章1-3節 ルカ福音書24章44-49節
讃美歌21 328番
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説教題「心を開き、神を知ろう」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 ホセア書6章1-3節 ルカ福音書24章44-49節
讃美歌21 328番
もう2022年も5月まできました。あんなにあった雪も山などに残るのみで消えました。きっと今年の夏も35℃近くまで暑くなり、冬になればまた雪がどっと降りというようなことが繰り返されるのだろうなぁと思っています。
コロナ、コロナで明け暮れてもう3年目。まだマスクしなければいけないのでしょうか。嫌になってしまいます。
だけど、この先のことは神さまが考えてくださっています。
わたしは、あなたたちのためにたてた計画をよく心に留めている、と主は 言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 (エレミヤ 29:11.12)
神さまは、いったいどのような計画をたててくださっているのでしょう、楽しみです。
少し前になりますが、ドン・ボスコ社で出版している「こどものいのりシリーズ」の中の『いちにちのいのり』というてのひらの形の絵本をもらいました。そのなかにこんな文章がありました。
かみさま わたしは きょう いちにち
いろんなことをします。
もし わたしが かみさまのことを
わすれたとしても かみさまは
わたしのことを わすれないでください。
というものです。
以前の説教で「わたしたちが神のことを忘れたとしても、神はわたしたちのことを忘れることはない」というような話を聞きました。その後でもらった絵本のことばがちょうど似たようなことを書いていて心に残りました。これはこの祈っているこどもの切実な願いなのですが、わたしも日常生活で神を忘れそうになることはたくさんあるな、と思いました。 (M・T)
説教題「復活の証拠」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 出エジプト記4章1-17節 ルカ福音書24章36-43節
讃美歌21 532番
説教題「いのちに向かって歩もう」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 イザヤ書43章1-5a節 ルカ福音書24章13-35節
讃美歌21 18番
受洗した時に頂いたお祈りの本からヘンリ・ナウエンの祈りを紹介します。
祈ることをやめません
愛する主よ、心がひどく動揺し、騒いでいても、そこには慰められる想いもあります。たぶんあなたは、私が感じたり、味わったり、理解もできない仕方で、私の内で働いておられるのでしょう。あなたに集中できず、心が落ち着かず、乱れています。あなたがここにおられず、見捨てられたように感じています。
でも信仰によって、あなたにすがりつきます。あなたの聖霊は私の想いや心よりさらに深く、さらに奥まで達しておられ、またその働きの初めは、気づかないくらい密やかであると信じます。
ですから主よ、諦めもしません。祈ることも止めないと約束します。たとえ、すべてが無駄で、無意味で、時間と労力の浪費かのように見えても。あなたの愛を感じられないときも、あなたを愛していること、そして絶望感に襲われがちでも、あなたに希望を置いていることを知ってください。
こうしたことが、私よりはるかに深く苦しんでいる世界の幾百万の人々と連帯する経験となり、私にとって、あなたと共なる、またあなたのための、小さな死でありますように。
(ヘンリ・ナウエンの祈りより) (すぬこ こと S.K.)
説教題「いのちに向かって走ろう」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 詩編119編126-136節 ルカによる福音書24章1-12節
讃美歌21 325番
説教題「十字架への道」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 イザヤ書52章13-53章12節 マタイ福音書21章1-11節
讃美歌21 160番
2022年4月10日(日)は、受難節の最後の主日、第6主日の礼拝です。主イエスのこの地上での最後の一週間という意味で、この週を特に受難週ということはよく知られている通りです。福音書の記事によれば、この最後の一週間の最初の日、日曜日には私たちがマタイによる福音書21章2節の記事を通して示されますように、主イエスがろばの子にまたがってエルサレムに入城されました。それは王としての入城を思わせる情景でした。
その週のことは福音書に詳細に記されていますが、今週の木曜日(14日)に例年のように、教会では洗足の木曜日の祈祷会が持たれますが、これは受難週の木曜日に主イエスが弟子たちと最後の晩餐を持たれたことを偲ぶ行事です。
その夜、主は逮捕され、裁判にかけられ、翌日の金曜日にゴルゴタの丘で十字架刑により処刑されてこの地上の御生涯を終えられたのでした。このことを覚えて教会では受難日祈祷会が持たれます。その金曜日を入れて、ユダヤ人の安息日である翌日の土曜日を経て三日目の日曜日の早朝に、主が死者のうちから甦り復活されたことを聖書は私たちに告げております。そのようなわけで来週の主日(4月17日)は復活祭イースターの記念の主日なのです。そのような一連の事柄の出発点として、私たちはエルサレム入城を覚える主日をご一緒に迎えているのです。
この受難週は、昔から棕梠の主日、パームサンデーと言われてきました。これはマタイ、マルコ、ルカといったいわゆる共観福音書ではなくて、ヨハネによる福音書12章にありますエルサレム入城の記事の中に次のような描写があるからです。
「その翌日、祭りにきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った」(ヨハネ12・12-13、口語訳)
あるいはもうお気づきの方もおられるかも知れませんが、この聖書の箇所は私たちが現在使っております新共同訳聖書ではそうなっていません。そこでは次にようになっています。「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た」(ヨハネ12・12-13、新共同訳聖書)つまり「しゅろ」は、新共同訳聖書では「なつめやし」と訳されているのです。
キリスト新聞社から出ている『新共同訳聖書辞典』の「なつめやし」の項目で、それがシュロ科の常緑高木であって、聖書に「しゅろ」と訳されているものも、多くはこの「なつめやし」を指すと説明されていますので、やはり新共同訳の方がより適切な訳語だと言えましょう。しかし、だからと言って、棕梠の主日は今後なつめやしの主日と言うべきである、などと申しているわけではありませんが、この日がどうして棕梠の主日と言われるようになったのか、という由来だけはきちんと知っておいた方がよいでしょう。 牧師 半澤洋一
説教題「成し遂げられた」 説教者 半澤 洋一 牧師
聖書 創世記2章6-7節 ヨハネ福音書19章28-30節
讃美歌21 463番
認知症の人は、相手が自分の言うことを繰り返して、それが確認されると安心します。この時、同じ言葉を繰り返すだけでなく、声の大きさや抑揚なども、できるだけ本人と同じようにします。もし本人が早口で言ったなら、介護者も早口で話すべきです。
認知症の人が話すことに対して、間違っていたとしても批判したり怒ったりせず、その方の状況を把握し理解して、リフレージングしてあげることで、スムーズなコミュニケーションが図れるようになります。
以上、今回は「リフレージング(本人の言うことを繰り返す)」についてお伝えしました。雪が解けて、暖かくなってきました。散歩するのもいいですね。 (Y・K)