母の日の日曜日、子どもの教会の礼拝に6人の子どもたちが出席してくれました。
礼拝後、フラワーアレンジメント教室を開催しました。お母さんに贈るお花です。
この心豊かなひと時が、子どもたちの良い思い出になってくれることを願います。
教会から始まった母の日に、子どもたちを招いてくださった神さまに感謝します。
それから、毎年お花を購入している花屋さん、子どもたちがお花に親しんでくれるようにとの願いを込めて、「たいへんなのよ」と言いながら、いつもたくさん提供して下さいます。感謝です。
(S.Y.)
TEL:017-776-4800
FAX:017-723-6809〒030-0813 青森市松原1-16-27
松丘保養園の神子澤悦子さんにいただいた森山諭先生が書いたこの本の感想を書きたいと思います。先生はクリスチャンの方で福島県生まれの人です。クリスチャン新聞に連載された自叙伝を単行本として出版されたのがこの本なので、お読みになった方も多くいらっしゃるかもしれません。1983年に初版がでています。
①少年の日の思い出
13日間もお母様を苦しめた挙句の出産でした。クリスチャンとして生きることを決めるまでに散々に思い悩み自殺まで考えたのですが、田舎の列車がなかなか来なくてそのために自殺しそこね、聖書につき起こされてイエス・キリストに目覚めて入信しました。
②1393年10月22日夜に感情的な問題から他宗教徒の人に松丘の北部保養園に放火されて療養所が全焼し、以来ホーリネス教会の伝道は禁止とされました。
③試練
自宅の雇人4人の中のひとりの癖が悪くて森山先生の両親の財布の金を盗むのをみつけるが、説教して直そうと5年間我慢して雇い続けます。それでも盗癖は直らず、犯人の父親から馬鹿者扱いされている中に、犯人は自分の罪を告白して自殺してしまいます。
④エピローグにかえて
「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」(ヨハネによる福音書16章2~3節)
森山先生ご自身が病気になった訳ではないのですが、キリスト教伝道の中でハンセン病とも深く関わって行ったようです。聖書の御言葉にささえられて人生をすごされた方でした。
(K・N)
遅ればせながらメル・ギブソン監督の映画『パッション』をDVDで見ました。2004年封切りの、イエス・キリストの最後の12時間を描いた作品です。セリフは1世紀のパレスチナで実際に使われていた、アラム語、ラテン語、ヘブライ語です。その他も忠実に当時の世界を再現しています。とても怖い映画だと思っていたので、こんなに遅くなりました。
2017年の4月7日に見たのですが、映画を見終わった後に昼のニュースでアメリカがシリアに対してミサイルを撃っていたことを知ったので、世も末だと思いました。
昨年度一年間、東京に行っていた教会員の方に「一年間貸してもいいから」と言われたので昨年の3月に借りたのですが、なかなか見る気にならないでいるうちに彼女は今年の3月に帰っていらっしゃいました。そこでいいかげん返さなければと思い、見てみました。
全部見ることは辛くてできませんでしたが、思っていたよりも骨のある、しっかりした映画でした。見ないで返さなくてよかったと思いました。
とても印象に残る受難節の中の1日を過ごすことができ、神様に感謝しました。
(M.T.)
イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活するkとになっている、と弟子たちに打ち明けはじめられた。するとペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
以上は、新約聖書マタイによる福音書16章21以下のみ言葉です。主イエスの一番弟子ともされるペトロでさえも、イエスのことを信じていなかった。その心にサタンが入り込んで来たのです。イエス・キリストが十字架にかけられ、死ぬのは、すべての人の罪を赦すためです。人が自分の罪を悔い改めるとき、十字架で死なれたイエスによって人は神から、そのt海を赦されるのです。イエスのご受難は神の愛ゆえです。
私たちは誰もが日々罪を犯しています。主イエスが私たちの身代わりとなって十字架を負い、血を流し、苦しみを受けてくださったのです。
あなたも、あなたの十字架を主イエスが背負ってくださることを知ってキリストの福音を信じてください。
今は、主イエスの御苦しみを覚えるレント(受難節)の期間です。ご復活を記念する「イースター礼拝」は4月16日(日)です。是非、教会へおいでください。お待ちしております。
(R.E.)
毎月第三日曜日の礼拝後、「ラベンダーの会」というグループの集会を行っています。
「ラベンダーの会」は、昔、活動していた青年会の後を引き継ぐ会として始まったグループです。今月は都合により、第四日曜日に集会を行いました。
毎月、1時間程度、キリスト教にちなんだ勉強をしています。
今月から新しく、『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著)をテキストにして、学び始めました。毎月少しずつ、みんなで一緒に読んで、メッセージを心に刻んでいきたいと思っています。
今月は三項目を読みました。
「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです。」
「咲けない日もあります。そんな時には無理をして咲かなくてもいい。根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」
今日みんなで分かち合ったことは、必ず、神さまが見守ってくださると信じて、安心して、それぞれの置かれた場所で、自分に与えられた務めを果たして行きたいということでした。
(S.Y.)
我が家でメダカを飼い始めて、1年が経とうとしています。はじめは11匹、小さな容器で飼っていたのだが、ホームセンターの店員に色々聞いてみた所、メダカの数に対して容器のサイズが小さすぎるとの注意を受けました。
「小さくてもメダカも泳ぐのです。」そう若い女性店員に言われ反省し、やや大きな水槽を買ってメダカを放し、泳いでいる姿を見て納得しました。メダカがきれいな水の中をスィースィーと泳ぐ姿は、見ていて気持ち良いものだ。彼等にも性格?があって、活発なもの、ボーッとしているものもあり、面白い。
去年の初夏、そんなメダカ達が卵を産み、それを別の容器に入れて風除室に置いておいた所、卵が孵化しました!小さな小さな赤ちゃんメダカは、じっと見なくては気づかないほどです。壊れそうな小さな命に感動しました。
この際、水替えはちゅいが必要とインターネットで知ったので、慎重行いました。赤ちゃんメダカは徐々に大きくなっていき、親メダカ達の水槽に一緒にして仲良くできるかどうか心配でしたが、大丈夫で安心しました。
メダカの親子2代、玄関の水槽を観察していると、心の安らぎを与えられます。これからも、我が家の小さなファミリーを大切に育てていきたいです。
(Y.T.)
今年2月の誕生日で87歳になりました。
長くもあり、短くもあり…。やっぱり長かったと思います。太平洋戦争の中にあった小学校1年から女学校を卒業するまでの10年間が、いちばん長かったように思います。
小学校6年生の時、お国のために何かできる事がないかと思い、友達と相談し、二人で新町通り(青森)のデパートの前に立ち、「国防献金お願いしまーす」と通る人に募金を呼びかけました(当時、先生の許可があれば募金運動ができました)。集まったお金を東奥日報社へ届けました。後に東條英機の名前で感謝状が届きました。振り返ってみて、とても恥ずかしいような、悔しいような気がします。
女学校の4年間は、半分位は勤労奉仕だったと思います。いちばん苦しかったのは、自分の体重とあまり変わらない重さの鉱石を背負って、崖のような所を何度も往復し、運ぶ作業でした(ノルマが与えられていましたから)。
砂糖や甘いお菓子など無い時代でしたから、幼い姪二人が酢をなめて「甘いね」と言ってニッコリ笑顔を見せました。
笑えないです。
小学校の音楽の時間では、戦争に関係あるものが多くて楽しくありませんでした。低学年では「今日も学校へ行けるのは~~兵隊さんの~おかげです~」とか、高学年では「敵艦見えたり~近づきたり~~~~各員(かくいん)奮励(ふんれい)努力せよと」などと歌っていました。
今、若さの中にある方々、18歳から選挙権も与えられましたし、自由に発言できる時代を大切にしてください。いつまでも平和でありますように希望を託したいと思います。
私はすり足で歩くような、おぼつかない足取りで生きておりますが、いつの日か、神様がみもとに引き寄せてくださると信じて、生きてまいりたいと思います。
(C.K.)
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネによる福音書16章23~24節)
どんなに絶望におちいっても、自殺しないで、あきらめないで、一生懸命になって、「イエスさま助けてください」と、イエスの名を読んでください。助けを求め祈ってください。助けを求め祈ってください。そして聖書を読んでください。聖書は読んでもわからない。でも、あきらめない。教会の礼拝に行ってください。説教を真剣に聞いて、イエス・キリストを求めてください。
キリスト教は知識ではありません。イエス・キリストを知るまで求めてつづけてください。必ず神さまは救いを与えてくださいます。
「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)
以上の内容は、あるどもり(吃音症)の青年が中学生の時、友だちからいじめられ、悩み、そのため自殺をはかったこともあったという経験を持つ牧師(現在)の「小説教集」からとったものです。
人は、この世に生を受け、たくさんの出会いを通し、善くも悪くも変えられていきますが、前述の牧師は、クリスチャンの同級生に誘われ、初めて教会の礼拝に行ったことから、今までの絶望的な生き方が180度変えられ、キリストの十字架と復活を信じ、洗礼を受け新しく生まれ変わることができたのです。そして、何人もの牧師の説教を聞くうちに、イエス・キリストの福音伝道のために献身する決心に導かれたのです。
神さまは、その人の心の奥底から出た真剣な祈り・願いを聞かれるお方です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)
皆さん、教会に来て、聖書の話を聞いて、讃美歌を一緒に歌いませんか。きっと不安が取り除かれ、平安が与えられ、次への新しい一歩を踏み出すことができるでしょう。
どうぞ教会へおいでください。いつでもお待ちしております。
(R.E.)
今年の冬の青森市は雪が少なく、弘前市の三分の一です。九州や中部地方・北陸地方の大雪をみると異常気象なのでしょうか。
2017年2月17日、弘前西教会で北西地区教会婦人会連合第2回連絡会(総会)が開かれました。25名の参加でした。2017年度は弘前地区から役員が出ることになっていて、委員長・書記・会計の三役とも木造教会の方々がやってくださることになりました。
その次の2018年度は青森地区から役員を出すことになっています。4つの教会から選ぶことになっていますが、実質的には青森教会と青森松原教会の2つの教会から出すことになっています。
ところが青森教会が高齢化もあり、脱会すると宣言したのです。そうなると当青森松原教会から三役すべて出さなければなりません。出席していた私たちは地区の再編を要望しましたが、結論は先送りされてしまいました。5月まで持越しです。青森教会が脱会するかどうかもです。働ける方は6名しかいなくてそれぞれ役割をもっているからこれ以上もつのは無理、ということでした。
婦人会連合の顧問である浪岡伝道所の石川牧師はマルコによる福音書4章24~25節「何を聞いているかに注意しなさい。」で始まる『「ともし火」と「秤」のたとえ』のところを用いて説教をささげられました。外のものを見ているようであっても私たちは実のところ、自分自身を見ているのだ。聞こえているものもそうで、外の音を聞いているようでも実はうちなる自分の声を聴いているのだ。いかに自分という殻が堅固で御しにくいものか、気がつかなければならない。自分のフィルターを通して判断してばかりではいけない、ということでした。
一人一人の「私」は違うけれども、御言葉を問うという一点のみで心をひとつに合わせることができます。私の理想はさまざまな異なる賜物を持つ人々が協力しあう教会です。
2017年度は教会に対し、どのような奉仕ができるでしょう。いや「神様に対し」かな。自問自答しながら慎重に歩んで行きたいと思います。
(M.T.)
寒さ募る大寒の日々を埋める本を探していたらこの本に出会いました。日頃尊敬を寄せる作者、渡辺和子氏にしては予想外のタイトルだなと思って目次を開いてみました。
私に合いそうな数ある小見出しの中には「人格と人格性」「人格性の特徴」「人間の成熟」
等とても難しそうなものもあり「やはり渡辺氏らしいな」と読む決意を固めました。私にとってのわかり易い部分だけを紹介することをお許し願います。
ご本人の意図として「心ふさぐ時や生き方に迷う時、自分らしさを見失わないための人生論です。人間の尊さ、力としての愛、自由とは何か……など、大学での三十年以上の講義を収録」したというものです。
以上の弁解をして、紹介に入ることに致します。
Ⅰ 礼儀
Ⅱ 人格
Ⅲ 愛
三浦綾子氏の小説の中にある次の文を添えて『「ひと」として大切なこと』の紹介を閉じることにします。
『真の愛と呼ばれるものは誰もが愛せるものを愛することではなくて、誰からも顧みられない価値なきかに見えるものに注がれる愛である。』
なかなか書き進められないものを貧しいながらも、やっと終えることができました。
神様のお力添えを感謝申し上げます。
(K.N.)