青森松原教会ホームページ

青森松原教会は134年の歴史を持つ、キリスト教の教会です。

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メッセージ
教会からのメッセージです。 ※ブログ等へのコメントについて※ 最近、教会ホームページのコメント欄に、多くのスパムメール(ショップの案内等)が届くようになりました。最初はあっても一週間に1-2件だったのですが、ここ3日で500件近いスパムメールが届くようになり、対応に追われています。サーバー会社に問い合わせても、個々に対処するしかないとの回答でした。 せっかくのコメント欄を閉鎖したくはありませんので、今後コメントいただく際は「記事へのコメント」と、冒頭に記していただきますよう、よろしくお願いいたします。それ以外のコメントは一括削除されるよう設定させていただきます。

ブログ一覧

教会に集う子どもたち

29日(日)子どもの教会の分級の時間に(礼拝後に聖書のお話を学んだり、レクリエーションをする)、子どもが二人来てくれました。二人が教会に来てくれたのは数ヵ月ぶりです。二人は兄弟です。会うたびに成長していく姿を見て、嬉しくもあり、頼もしくもあります。よく来てくれたね!と、教師スタッフみんなで大歓迎です。送り出してくださったご家族と、神さまに感謝です。子どもたちの健やかな成長を心から祈ります。

現在、子どもの教会は子どもの出席が激減状態です。でも時々出席してくれる子どもたちがいます。いつも子どもたちを迎える心備えを忘れないようにと、改めて思いました。子どもたちを迎える心備えをする、この当たり前のことがおろそかにならないようにと、神さまのお支えを祈る日曜日でした。

(S)

種を蒔く人

冬が過ぎて、春が来ました。青森の春は、とても急がしいなと実感するこの頃です。寒かったり、暖かかったりそのたびにストーブを出してみたり。(冬物を片付けたばかりなのに。)

桜の花も散り、チューリップの花が咲いて、今スズランが満開の見頃となりました。岡山から送られて来た種をあるわずかな空間へ蒔いてから数年経った現在、見事なスズランの群落となりました。

わずかな空間と、時に雪や雨に打たれ、夏はカンカン照り返すアスファルトのすき間です。そのたくましさに脱帽……。

(y.k)

うれしいプレゼント

5月8日「母の日」の1週間位前のことです。一緒に住んでいる5才の孫が「ばぁばにプレゼントあげるからね。」と言って、ティッシュペーパーの箱を持っていき、何やら作業を始めました。しばらくして「ばぁば ハイ、プレゼント♪」と手渡された物はティッシュの箱でした。

上の方にばぁばの似顔絵 を書き、その周りに小さくてカワイイ赤いハートを散らして書き、すぐ下に「ありがとう」とありました。

又、下の方には「おばあさん、ありがとう」と折り紙に書き、各々に切って貼ってありました。

丁度2ヶ月前の3月8日に、孫たちの母親が急に病気で亡くなり、その母に代わって、不十分ながら面倒を見ている私にとって、このプレゼントは何にも増して嬉しい物でした。

まだまだ母を必要とする幼少期の孫たちのこれからの健やかな成長を、天の父なる神さまが守り導いてくださることを心から祈り願います。

家族全員でもサポートして行こうと話し合いました。

(E)

長崎の大浦天主堂で

私は旅行が大好きなのですが、観光というものにはあまり興味がありません。有名な場所、物を見るよりは、歩いてその土地の空気を感じたい。地元の方々とお話をしたい。いつもそう思います。

そんな私ですので、数年前に長崎に行き、大浦天主堂の中に入ったときも、特に何かを考えるということはありませんでした。「そういう教会なのか。なるほどなあ。」程度の反応でした。

数日前に、また長崎に行く機会がありました。今の私は数年前とは違い、求道者として教会に通っています。今度は自分がどう感じるのか興味があり、また行ってみることにしました。教会そのものよりも、自分自身の反応を知りたかったのです。

教会の雰囲気は全く変わっていませんでした。でも、パンフレットを読みながら中を歩いていくと、当時の長崎のクリスチャンの思い、神父さまの思いが伝わってくるように感じました。毎週礼拝を守っている今の私に置き換えて考えてもみました。自分が信じるものを隠して生きていかなければならないという生活は、どのようなものだったでしょう。想像するだけで苦しくなります。場所や物は、その背景、歴史を理解することによって、より大きな意味を持つ存在になり得ることがようやく私にも分かりました。

カトリックとプロテスタントの教会は、建造物としての造りが大きく違いますが、その歴史を考えるとき、心に訴えてくるものには違いがないように感じました。そう言えば、私は2000年にロシア正教会総主教アレクシイⅡが函館にいらしたとき、1メートルくらいの距離でお顔を拝見し、随行の方々ととても楽しい会話(のようなもの?)をしました。そのことは、また別の機会にご紹介しましょう。

yn

言葉について

何気なく開いた古雑誌の中に「言葉には表と裏がある」のタイトルで二人の職者が対談しているのを見出したので、その一部を紹介したくなりました。

最近、攻撃的で表面的、ある意味わかり易い言葉がどんどん流れる事が多くなりました。だから無責任な言葉を真に受けて自分を傷つけたりしないようにと警告を発しています。同時に、言葉は喋って相手にぶっつける事で自分の感情をなだめる道具なのだから、口ゲンカや悪口雑言だって、波立つ心のさばけ口として大切なものとしてみるべきです。

辞書には「うら寂しい」や「うら恥ずかしい」等のように「心」を「うら」と言うことがあります。心は「心中」とか「心奥」、「心の底」等のように簡単に外に出られない場面が数多くあります。「うちうちで」とか「本音と建前」、「他人の目が届く」とかに敏感な人も数多く居ます。更に「腹が立つ」、「頭に来る」、「髪の毛が逆立つ」など全身で心を表す表現もあります。

昔話や神話には限りなく人間の考え方の傾向や無意的にくり返される言動が表現されています。その一つの「夕鶴」は「見るな」の約束を与ひょう(登場人物、百姓)が破った為に生じた悲劇です。

「人間と鳥」の生と死の間で「あれか、これか」とこり固まって考えずに、「あれもこれも」と余裕を持ち二股をかければよかったのです。二者択一の慌てた考え方でなく時の流れに身を任せる問題の解き方もあるという結末で対談は終わりました。

私は此処で聖書の「ヨブ記」に想いをめぐらせました。

聖書を読んでも「わからない?」の思いに捉われてしまう私は「詩編」と「ヨブ記」だけが、どうやら何かがわかったような安堵感を抱ける人間なので大きなことは言えないのですが……。

神から信仰深いヨブを試みる事を認められたサタンは色々な手段でヨブの生活を苦しめ、とうとうその生活をどん底に落としてしまいます。ヨブの友人、知人達が相次訪ねて来て、慰めたり忠告したりするがヨブは一切それらに耳を貸さず、反論する一方だから、ヨブの生活が好転することはありません。延々とくり返す論争の中に、ある青年が登場して以来、空気が少しずつ冷静さを生じ、ヨブは自分の神に対する「高ぶり」を自覚できます。

以来、神との出会いを解決への道として歩み直します。以前の信仰を取り戻したヨブが完全に勝利を得たことに私は広く深い神の愛に対して祝福と感謝の念に満たされてしまいます。

(K・N)