一年に何回か私には強い後悔に襲われる時があります。それは父に対する後悔です。今日はそのことを書くことにします。書いたとしても自分がそのことから逃れることはできなくて、後悔は生きている間、続くでしょう。後悔というものの根強さに呆れながら、あと何回悩まされることでしょう。
私は1920(大正9)年11月1日に父23歳、母18歳の時に鰺ヶ沢町の長谷川時計店の長女として生まれました。ちょうど祖母が他界して淋しくなった時で、長谷川家にひとつの賑わいを持たせた存在として大事に育てられたようです。どんなに可愛がられたかというと、毎年正月に父が私ひとりだけを町一番の料理店に連れて行って立派なお膳をごちそうしてくれたことを覚えています。父としてはそれが最高の私へのもてなしだったのでしょう。昔のことですから、兄弟姉妹が多くその一番上として水汲みや子守りなど、家の手伝いを良くしました。そのことをきちんと見てくれていたのだと思います。私は幼い頃から感情を表に出さない子どもでしたので、あまりうれしそうな顔はしませんでした。そのことが父に悪かったかなと、今になれば思います。
話は1961(昭和36)年頃にまで飛びます。戦争に負けましたが、どうやら国を建て直し始めて、日本の国を世界のひとつとして認められるようになりました。新しい文化の波に日本の国も恩恵を受けるようになってやっと胸を少し張れる時代を迎え始めるようになりました。私は結婚して奈良姓を名乗るようになりました。鰺ヶ沢の隣の木造町に夫や子どもたちと住んでいました。
我が家にもカラーテレビが来ることになり、長男が「古い白黒テレビを自分の部屋にくれないか」と言いました。夫も私も賛成し、長男は大喜びで友達に言いふらしたりしたようです。
ところがそれから何日もたたないうちに鰺ヶ沢の父が脳梗塞で入院することになりました。そこで、父は「木造の古いテレビを病院の部屋にくれないか」と言いました。今は入院患者ひとりにつきひとつテレビを借りることができますが、昔は違いました。自力で揃える必要がありました。私は「明夫(長男)の部屋に行ってしまった」と断りました。父は「そうか。」と言ったきりでした。
父は時計店をするかたわら自転車店もやっていましたが、だんだんと時計を店で修理してもらう文化もなくなり店は裕福ではありませんでした。どうしてあの時、小さいテレビをひとつ、買ってあげる考えが浮かばなかったのでしょう。このことが私の胸にひっかかりいつまでも痛みを伴うのです。
神さま、私の冷たい心をどうかお許しください。(K. N.)