青森松原教会ホームページ

青森松原教会は134年の歴史を持つ、キリスト教の教会です。

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ブログ

とりなしの祈り

教会では6月の第2週の日曜日を「花の日・子どもの日」として、神から与えられた自然の恵みと子どもたちを感謝し、子どもの教会との合同礼拝として献げる日にしています。2017年は6月11日になります。

礼拝の中で子ども祝福式が行われ、礼拝後に皆で持ち寄った花を子どもの教会で、お世話になっている近隣の公共施設等にお花を届けます。「祝福」とは旧約聖書の中で「神のまなざし」と同じ意味を持ちます。ここでは①子どもが繁栄すること②神がいつもあなたと共にいると約束する、神の救いの約束です。

今日(2017年6月11日)の説教題は「とりなしの祈り」です。ルカによる福音書23章32節から34節までを用いて大澤先生が捧げられます。2016年度に大人の礼拝の公開連続説教でルカによる福音書はすべて聴きましたので、今日の部分も学んでいます。その時の説教内容をメモしたノートを再び読んでみました。取り上げられている範囲は23章32節から38節までと、今日よりは少し広くとられています。説教題も「十字架上の執り成しの祈り」となっています。イエスは十字架にかけられている時、人々に罵られたり嘲られたりしても、神に対し「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ります。それがとりなしの祈りです。人間にいくらひどい目にあわされても、神に人間をとりなして祈ってくださるのです。

今は朝なので、子どもの教会との合同礼拝はまだ始まっていません。説教は大人の礼拝とはまた違った切り取り方で教えてくださると思うので楽しみです。

ちなみに2017年度は使徒言行録を学んでいます。すでに15章まで行っています。そちらも楽しみです。

(K.N.)

ジョージ・ジュング兄がいらっしゃいます。

2016年9月18日(日)に青森松原教会で伝道礼拝を捧げてくださったSCF(学生キリスト教友愛会)主事補のジョージ・ジュング兄が、2017年の6月でSCFを辞めることになりました。日本を離れる前に東北地方をもう一度訪ねてくださるということで、2017年6月10日(土)17時から、歓迎夕食会が青森松原教会で開かれることになりました。どなたでも参加できますので、どうぞいらしてください。

この日は13時から土曜子ども集会も行われます。いつもは第3土曜日に行われていますが、6月は第2土曜日の10日に変更になりましたのでご注意ください。

コンゴ生まれのジョージ兄は2016年の9月18日に「わたしは嘆くのですか?」という題で、旧約聖書の哀歌3章48節から51節までを用いて説教をなさいました。「嘆きの預言者」とも言われるエレミヤが書いたとされる哀歌。ジョージ兄は自分の人生では嘆くことは何だろう?と考えたそうです。様々なことが頭に思い浮かびましたが、その中のひとつが日本に関係のあることでした。日本の98%の人はキリスト教を知らないと言われます。この事実を本当に嘆けているのだろうか、私は、と考えたそうです。

ジョージ兄は聴衆に語りかけます。皆さんの心の中に愛している人々はいますか。その人々はイエス・キリストを知っていますか。知っていないのであれば、あなたはそのことを嘆いていますか。

真摯な問いかけが私の心に何かを残しました。

(M.T.)

豊かな日曜日

母の日の日曜日、子どもの教会の礼拝に6人の子どもたちが出席してくれました。

礼拝後、フラワーアレンジメント教室を開催しました。お母さんに贈るお花です。

この心豊かなひと時が、子どもたちの良い思い出になってくれることを願います。

 

教会から始まった母の日に、子どもたちを招いてくださった神さまに感謝します。

 

それから、毎年お花を購入している花屋さん、子どもたちがお花に親しんでくれるようにとの願いを込めて、「たいへんなのよ」と言いながら、いつもたくさん提供して下さいます。感謝です。

(S.Y.)

フラワーアレンジメント_compressed

『夕べ雲焼くる~主の恩寵の軌跡』を読んで

松丘保養園の神子澤悦子さんにいただいた森山諭先生が書いたこの本の感想を書きたいと思います。先生はクリスチャンの方で福島県生まれの人です。クリスチャン新聞に連載された自叙伝を単行本として出版されたのがこの本なので、お読みになった方も多くいらっしゃるかもしれません。1983年に初版がでています。

 

①少年の日の思い出

13日間もお母様を苦しめた挙句の出産でした。クリスチャンとして生きることを決めるまでに散々に思い悩み自殺まで考えたのですが、田舎の列車がなかなか来なくてそのために自殺しそこね、聖書につき起こされてイエス・キリストに目覚めて入信しました。

②1393年10月22日夜に感情的な問題から他宗教徒の人に松丘の北部保養園に放火されて療養所が全焼し、以来ホーリネス教会の伝道は禁止とされました。

③試練

自宅の雇人4人の中のひとりの癖が悪くて森山先生の両親の財布の金を盗むのをみつけるが、説教して直そうと5年間我慢して雇い続けます。それでも盗癖は直らず、犯人の父親から馬鹿者扱いされている中に、犯人は自分の罪を告白して自殺してしまいます。

④エピローグにかえて

「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」(ヨハネによる福音書16章2~3節)

 

森山先生ご自身が病気になった訳ではないのですが、キリスト教伝道の中でハンセン病とも深く関わって行ったようです。聖書の御言葉にささえられて人生をすごされた方でした。

(K・N)

「パッション」を見ました。

遅ればせながらメル・ギブソン監督の映画『パッション』をDVDで見ました。2004年封切りの、イエス・キリストの最後の12時間を描いた作品です。セリフは1世紀のパレスチナで実際に使われていた、アラム語、ラテン語、ヘブライ語です。その他も忠実に当時の世界を再現しています。とても怖い映画だと思っていたので、こんなに遅くなりました。

2017年の4月7日に見たのですが、映画を見終わった後に昼のニュースでアメリカがシリアに対してミサイルを撃っていたことを知ったので、世も末だと思いました。

昨年度一年間、東京に行っていた教会員の方に「一年間貸してもいいから」と言われたので昨年の3月に借りたのですが、なかなか見る気にならないでいるうちに彼女は今年の3月に帰っていらっしゃいました。そこでいいかげん返さなければと思い、見てみました。

全部見ることは辛くてできませんでしたが、思っていたよりも骨のある、しっかりした映画でした。見ないで返さなくてよかったと思いました。

とても印象に残る受難節の中の1日を過ごすことができ、神様に感謝しました。

(M.T.)

主イエス・キリストのご受難

イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活するkとになっている、と弟子たちに打ち明けはじめられた。するとペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」

それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

以上は、新約聖書マタイによる福音書16章21以下のみ言葉です。主イエスの一番弟子ともされるペトロでさえも、イエスのことを信じていなかった。その心にサタンが入り込んで来たのです。イエス・キリストが十字架にかけられ、死ぬのは、すべての人の罪を赦すためです。人が自分の罪を悔い改めるとき、十字架で死なれたイエスによって人は神から、そのt海を赦されるのです。イエスのご受難は神の愛ゆえです。

私たちは誰もが日々罪を犯しています。主イエスが私たちの身代わりとなって十字架を負い、血を流し、苦しみを受けてくださったのです。

あなたも、あなたの十字架を主イエスが背負ってくださることを知ってキリストの福音を信じてください。

今は、主イエスの御苦しみを覚えるレント(受難節)の期間です。ご復活を記念する「イースター礼拝」は4月16日(日)です。是非、教会へおいでください。お待ちしております。

(R.E.)

ラベンダーの会の学び

毎月第三日曜日の礼拝後、「ラベンダーの会」というグループの集会を行っています。

「ラベンダーの会」は、昔、活動していた青年会の後を引き継ぐ会として始まったグループです。今月は都合により、第四日曜日に集会を行いました。

毎月、1時間程度、キリスト教にちなんだ勉強をしています。

今月から新しく、『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著)をテキストにして、学び始めました。毎月少しずつ、みんなで一緒に読んで、メッセージを心に刻んでいきたいと思っています。

今月は三項目を読みました。

「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです。」

「咲けない日もあります。そんな時には無理をして咲かなくてもいい。根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」

今日みんなで分かち合ったことは、必ず、神さまが見守ってくださると信じて、安心して、それぞれの置かれた場所で、自分に与えられた務めを果たして行きたいということでした。

(S.Y.)

我が家の小さなファミリー

我が家でメダカを飼い始めて、1年が経とうとしています。はじめは11匹、小さな容器で飼っていたのだが、ホームセンターの店員に色々聞いてみた所、メダカの数に対して容器のサイズが小さすぎるとの注意を受けました。

「小さくてもメダカも泳ぐのです。」そう若い女性店員に言われ反省し、やや大きな水槽を買ってメダカを放し、泳いでいる姿を見て納得しました。メダカがきれいな水の中をスィースィーと泳ぐ姿は、見ていて気持ち良いものだ。彼等にも性格?があって、活発なもの、ボーッとしているものもあり、面白い。

去年の初夏、そんなメダカ達が卵を産み、それを別の容器に入れて風除室に置いておいた所、卵が孵化しました!小さな小さな赤ちゃんメダカは、じっと見なくては気づかないほどです。壊れそうな小さな命に感動しました。

この際、水替えはちゅいが必要とインターネットで知ったので、慎重行いました。赤ちゃんメダカは徐々に大きくなっていき、親メダカ達の水槽に一緒にして仲良くできるかどうか心配でしたが、大丈夫で安心しました。

メダカの親子2代、玄関の水槽を観察していると、心の安らぎを与えられます。これからも、我が家の小さなファミリーを大切に育てていきたいです。

(Y.T.)

戦争と平和

今年2月の誕生日で87歳になりました。

長くもあり、短くもあり…。やっぱり長かったと思います。太平洋戦争の中にあった小学校1年から女学校を卒業するまでの10年間が、いちばん長かったように思います。

小学校6年生の時、お国のために何かできる事がないかと思い、友達と相談し、二人で新町通り(青森)のデパートの前に立ち、「国防献金お願いしまーす」と通る人に募金を呼びかけました(当時、先生の許可があれば募金運動ができました)。集まったお金を東奥日報社へ届けました。後に東條英機の名前で感謝状が届きました。振り返ってみて、とても恥ずかしいような、悔しいような気がします。

女学校の4年間は、半分位は勤労奉仕だったと思います。いちばん苦しかったのは、自分の体重とあまり変わらない重さの鉱石を背負って、崖のような所を何度も往復し、運ぶ作業でした(ノルマが与えられていましたから)。

砂糖や甘いお菓子など無い時代でしたから、幼い姪二人が酢をなめて「甘いね」と言ってニッコリ笑顔を見せました。

笑えないです。

小学校の音楽の時間では、戦争に関係あるものが多くて楽しくありませんでした。低学年では「今日も学校へ行けるのは~~兵隊さんの~おかげです~」とか、高学年では「敵艦見えたり~近づきたり~~~~各員(かくいん)奮励(ふんれい)努力せよと」などと歌っていました。

今、若さの中にある方々、18歳から選挙権も与えられましたし、自由に発言できる時代を大切にしてください。いつまでも平和でありますように希望を託したいと思います。

私はすり足で歩くような、おぼつかない足取りで生きておりますが、いつの日か、神様がみもとに引き寄せてくださると信じて、生きてまいりたいと思います。

(C.K.)

「新しく生まれ変われる?」

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネによる福音書16章23~24節)

どんなに絶望におちいっても、自殺しないで、あきらめないで、一生懸命になって、「イエスさま助けてください」と、イエスの名を読んでください。助けを求め祈ってください。助けを求め祈ってください。そして聖書を読んでください。聖書は読んでもわからない。でも、あきらめない。教会の礼拝に行ってください。説教を真剣に聞いて、イエス・キリストを求めてください。

キリスト教は知識ではありません。イエス・キリストを知るまで求めてつづけてください。必ず神さまは救いを与えてくださいます。

「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)

以上の内容は、あるどもり(吃音症)の青年が中学生の時、友だちからいじめられ、悩み、そのため自殺をはかったこともあったという経験を持つ牧師(現在)の「小説教集」からとったものです。

人は、この世に生を受け、たくさんの出会いを通し、善くも悪くも変えられていきますが、前述の牧師は、クリスチャンの同級生に誘われ、初めて教会の礼拝に行ったことから、今までの絶望的な生き方が180度変えられ、キリストの十字架と復活を信じ、洗礼を受け新しく生まれ変わることができたのです。そして、何人もの牧師の説教を聞くうちに、イエス・キリストの福音伝道のために献身する決心に導かれたのです。

神さまは、その人の心の奥底から出た真剣な祈り・願いを聞かれるお方です。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)

皆さん、教会に来て、聖書の話を聞いて、讃美歌を一緒に歌いませんか。きっと不安が取り除かれ、平安が与えられ、次への新しい一歩を踏み出すことができるでしょう。

どうぞ教会へおいでください。いつでもお待ちしております。

(R.E.)