青森松原教会ホームページ

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教会における葬儀の実際

教会における葬儀の実際

教会ホームページブログの更新が約1ヶ月滞ってしまいました。ご心配された方もいらっしゃるかもしれません。申し訳ありませんでした。その間教会にいらっしゃっていた方や、フェイスブックをご覧の方はご存知かと思いますが、私共の教会では3月に入り、立て続けに2週間で3度の葬儀が執り行われました(牧会責任を負う姉妹教会葬儀1件含む)。1月末から数えると、わずか2ヶ月の間に5度です。さすがに東京の大教会(現住陪餐会員300名超、礼拝平均出席150名超)にいた時も、これほどの高い頻度の葬儀は経験したことがありませんでした。異常事態です。

クリスチャンでない友人、知人から、「葬儀になると何でブログが滞るの?」とか、「葬儀って何しているの?」と質問を受けることがしばしばあります。確かにわからない事が多いかもしれません。「お坊さんが決まったお経上げるようなものじゃないの?どこが大変なの?」と聞かれたこともありました。良い機会でありますので、教会における葬儀の実際を、少し長くなりますが記したいと思います。

牧師にもよると思いますが、教会ではだいたい1件の葬儀にあたり、牧師の働きは4-5日程度滞るのではないかと思っています。通常の働き(日曜の説教や、水曜の祈祷会奨励、その他事務作業などのルーティンワーク)は一切減らず、単純に足し算で、駆けつけ(病院やご自宅)、召天立ち会い(間に合えば)、葬りの祈り、納棺式、遺族・業者打ち合わせ、役員会への連絡、出棺式、火葬前式、前夜式、葬儀・告別式、各式次第(プログラム)印刷(←青森ではキリスト教系の葬儀社がないため、プログラムの印刷やその準備も教会が行います)、各奉仕者への依頼などが加わります。

私は加えて、より良い葬儀説教になればとの願いから、極力ご遺族との時間を式までの毎日取るように心がけています(ご遺族の負担にならない範囲で、葬儀社のドライアイス交換の時間などに合わせ。慰めと導きを求める祈りをささげ、短時間家族へインタビュー)。また、数百頁の『教会百年史』や教会機関紙のバックナンバー189号(1部8-12頁)のすべてを読み返し、召天者や家族に関する記述をチェックします(こういう時に、未熟ながらも過去に学んだフォーカスリーディングの技術が役立ちます)。また、告別式直前の火葬中の斎場における待ち時間のご親族等との会話も、私は大切だと思っています。そこでしか伺えない思い出話があります。召天者の御生涯がより立体的に彩られるため、私はいつも火葬後に葬儀説教の手直しを行っています。

教会における葬儀で大切なことは二つだと思っています。第一は何よりご遺族、近親者の慰めと平安を心を込めて祈ること、第二に、この葬儀によって、召天者の生涯を通して主なる神の栄光が証しされることです。葬儀説教では、召天者の生前残されたお言葉(記事や思い出から)や近親者の思い出、召天者の愛された聖書の言葉や讃美歌などによって、その御生涯を丁寧に振り返ります。なので、どれ一つとして同じ葬儀説教はありません。約30分のオリジナルストーリーです。それを準備するのに、毎回たくさんの時間が必要となります。

昨日教会で行われた教会信交会では「小児洗礼からお墓まで」と題して、キリスト者の生涯や葬儀、お墓について協議しました。その中で、「教会で葬儀を行うと教会員や牧師に迷惑をかけるのではないか?」との意見が出されました。迷惑をかけないようにホールを借りて行おうと考えているというのです。確かに上記の通り、葬儀は教会にとって大変な営みであることは確かです。上記以外にも数多くの教会員の奉仕(会場設営、事前清掃、受付、案内、駐車場係、下足番、音響、空調ほか)も必要となります。けれども、それが「迷惑」だとは誰も考えないはずです。ご遺族の慰めと平安を祈りつつ、主なる神の栄光が証しされることを、むしろ「喜びつつ」ご奉仕されていると思います。教会への負担を心配されるご遺族にもいつもお伝えするのですが、なぜならそれは教会が「神の家族」だからです。「家族の」葬りのために、みな一所懸命心を込めて執り行うのです。だから私は「教会で」キリスト者やその関係者の葬儀を執り行うことに意味があるのだと考えます。

2013年度に計7件の葬儀が私共の教会で執り行われました。ご遺族や参列者の多くから「こんな葬儀初めてだ」、「キリスト教の御葬儀って温かいのね」、「教会で葬儀をしてもらって良かった」とのお言葉をいただきました。そして、その中から何人もの方が、召天者の愛された青森松原教会の礼拝へ事あるごとに御出席くださるようになりました。中には毎週ご出席くださっている方もいらっしゃいます。大きな悲しみの出来事が、大きな慰めと喜びへと転換する。私はそれがキリスト教の葬儀ではないかと思うのです。

悲しみの中にあるお一人お一人を覚えて、これからも日々祈り続けてまいりたいと思います。

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